いじめや自死を生む僧堂の環境
いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-
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上記「僧堂における理不尽なルール」でも述べたように、僧堂ではほぼ24時間同じ空間、同じ面子、同じ小集団での共同生活になる。また、数少ない自由な外出機会も雲水であることが求められ、私服を着ただけで私的刑罰の対象になる。
場を制限することに宗教的意味を見出しているのかも知れないが、実際にそのような環境はどのような問題が起こりうるのか。
以下、考えていきたい。
ストレス発散の仕方が限られる
まず、ストレス発散の仕方が限られる環境ではいじめが起きやすい。
トップ記事でも引用したが、荻上チキ『いじめを生む教室』*1には以下のように書かれている。
学校の教室というのは、他人に時間を管理されている環境なので、自分好みのストレス発散がなかなかできません。一方でいじめというのは、「それなりにおもしろいゲーム」なので、そういう形でストレスが発露してしまうのです。
しかし、いじめは、「なによりもおもしろいゲーム」ではありません。(中略)いじめという形でストレスを発散していた人が別の発散方法を手に入れると、いじめをしなくてもすむようになることがわかっています。問題は、学校では「クラスから離脱する」ことも、「ゲームやスマホなどを持ち込み、ストレス発散する」ことも禁じられていることです。*2
しかし、僧堂は時間・空間がほぼほぼ管理されている環境である。そして、「ゲームやスマホ」のような同空間にいながらも気をそらすことのできるような娯楽はほとんどない。
当然、いじめが起こりやすい環境であると言える。
自己否定へ
いじめが起きたとき、空間が限定されていることがより事態を深刻にする。
複数の空間・居場所を持っている場合、別の場が救いとなるだろうし、いじめをおかしな行為だと認識できる。
しかし、空間がそこ1つに限定されていると、今自分のいる環境を疑うことが難しい。例えその集団の論理が、市民社会の論理や自身の価値観と異なるものでも、その空間の同調圧力に屈してしまう。
その中間集団=教室から逃げ出す、外の環境を知ることはなかなか叶わないため、今自分のいる、いじめが起こるような環境を疑うことが難しい。(中略)加害者が快楽や支配欲を満たしながら、「あいつは自分たちに従うべきだ」と信じていく。あるいは被害者が、「謝るから仲良くしてください」等と、理不尽な秩序にもかかわらず従っていこうとする構造が生まれ、それが閉鎖空間の中では「正義」だと誤認されていくのです。*3
ハラスメントや性被害について、そのときはそれを問題だと思えなかったと被害者が語ることが多いが、自分がアクセスできる空間が限られていることが一因にあると思う。
消極的排除
「異質なものを異質なままで受け入れることができるような雰囲気」がいじめ対策に望ましい*4とされるが、24時間同じ空間でそれが成し遂げられるか。
私自身の経験では、同空間での異質なものには、積極的ないじめ等がなかったとしても、消極的排除が起こる。
その時、場がそこしかなければ当然居場所がなくなったように感じ、自己否定につながっていく。
空間が限定されることで起こりうる問題
まとめると、場が1つしかない環境で起こりうることは、ストレス発散の仕方が限られることによるいじめの増大。そして、外の環境から隔離されることによる認知の歪み、それにより生まれる自己否定感情である。
特にその空間で「異質」なものにとって、それは起こりやすく、場合によっては自死につながる。
複数の居場所があれば、自己否定に陥らず客観視できたり、別の場にエスケープすることにより自死を回避できる可能性が高くなる。僧堂の環境は、それを制限するような環境なのである。
自由刑=「移動の自由の制限」の不平等さ
最後に蛇足になるが、「異質」の話が出たので、一度持論を述べたい。
日本での懲役や禁錮等にあたる自由刑は、「移動の自由の制限」である。しかし、実情は本記事で問題としてきた「集団から離脱する自由」の制限である。
となると、同じ量刑であっても、受刑者によってその重さは違うのではないか。適応できる人間と適応できない人間。例えば、暴力団等の集団でサバイブできるような人間にとっては集団での生活はそこまで苦にならないかもしれない。しかし、「異質」とされやすい人間にとって自由刑は極刑であり、再社会化をより難しくしてしまうものなのではないか。
そして、この自由刑は一般的な日本人は等しく経験があるものである。そう、学校である。
学校は時間が限定されている自由刑である。朝から夕方もしくは晩まで、同じ集団から離脱することが許されない。そこに適応できる人間はいいが、適応できない人間は落伍者としてラベリングされ、その後の人生においてもそのラベリングやそれによる自己否定は尾を引く。そこから抜け出せるかはその人個人によって変わってくるだろうが、学校という画一的な制度のせいで、人生がより困難になっていく。
多様な代替、受け皿が必要
さて、これは別に刑事政策や教育について考察するブログではないので僧堂に話をつなげる。
僧堂は適応できる人間にとっては、何かを獲得できる場になるかもしれない。しかし、「異質」な適応できない人間にとっては何かを獲得する以前の段階で躓いてしまう。
私個人の話になるが、私は小中と不登校、つまり適応できない人間であった。毎日同じ場所、同じ空間で過ごすのが苦痛で、また、周りに複数の人間がいるとたとえ良好な人間関係であっても疲れてしまう。
しかし、単位制高校、そして大学という集団からの離脱が自由にできる空間では、人並みに過ごすことができ、本来の目的である「教育」を一定水準で享受できたと思う。*5
つまり、主制度ではうまくいかなくても、代替があれば本来の目的が達成できることがある。この代替が多様であればあるほど、より多くの人間がこぼれ落ちることなく目的を達成できる。
僧堂も同じ話であると思う。
多様な代替、受け皿があれば、1つの制度に適応できない人間にも、本来の目的が達せられるようになる。
必要なのは、合理的配慮、そして多様な代替なのである。
この点については、次の記事にて更に述べる。