合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

(↑トップ記事)

 

 トップ記事で書いたように、僧堂は平均的な人間にとっても問題をはらんだ場であるが、年齢・身体・精神などの属性によって更に厳しい場となる。

 また、「僧堂における理不尽なルール」の連帯責任の項で述べたように、一定の属性の人間が足を引っ張る存在として可視化される問題もある。

ztos.hatenablog.com

 そして、「いじめや自死を生む僧堂の環境」の下部で述べたように、そのような属性を持つ人間とって、必要なものは合理的配慮と多様な代替である。

ztos.hatenablog.com

 以下、この問題について掘り下げていく。

 

合理的配慮と多様な代替が必要な理由

 端的に言うと「主制度ではうまくいかなくても、代替があれば本来の目的が達成できることがある。この代替が多様であればあるほど、より多くの人間がこぼれ落ちることなく目的を達成できる」ということである。

 これについては前掲「いじめや自死を生む僧堂の環境」で詳しく述べたので、参照していただけると幸いである。

 考える際、重要となるのは、如何な属性がうまくいきづらいのか、どのような代替であればうまくいくのか、そもそも何をもってうまくいくとするのか(=僧堂の趣旨)ということである。

 以下、これらについて記述していく。

問題となる属性と、それを問題視するのが適切か否か

 問題とされる属性について、トップ記事でも述べたが、私が聞いた例を挙げる。

 ・年齢、体力のなさ

 まず、年齢。「30歳までにこないと厳しいよ」とある現役雲水は言った。理由は、3時間の睡眠で耐えられる体力がないと僧堂ではやっていけないからだと言う。

 この3時間睡眠がまずおかしいというのは前掲記事「僧堂における理不尽なルール」で述べたとおり。

 3時間睡眠は論外として、高年齢=体力が衰えているから僧堂でやっていけないというのは適切なのだろうか。答えは基本的にNOであろう。体力が衰えているなら*1それに合わせたカリキュラムにすれば良いだけである。

 例外的なYESの場合とは、その趣旨と体力が密接に関わっている場合である。例えばプロスポーツ選手などは、当然体力の衰えがダイレクトに影響する。宗教でいえば、(詳しくはしらないが)千日回峰行などがそれに該当するのかもしれない。

 僧堂の場合はどうなのか。上記の例は、形式的な結果・成績が必要なものであるが、禅の実践はそのような形式的な結果を求めるものなのであろうか。僧堂の趣旨が問われる。

 ・腰痛など、身体によるもの

 また、あるOBは「こないだ入った1年目の雲水が腰痛になったから出てってもらった*2」と述べた。おそらく、腰痛によって座禅が困難になったことが原因だと思われる。

 ここでもやはり趣旨である。

 座禅という形式が絶対的に必要なのか。その場合、腰痛に限らず身体的な障害があると禅の実践は不可能ということになる。随分排他的な宗教である。

 ある大学の仏教講義を聴講した際、講師の方が「1に作務、2に読経、3に座禅」と講義されていた。これらの行為は、いわゆる純粋経験を体感することに共通項があるように思える。そう考えると、その趣旨・意義は行為の形式にはないのではないか。だとすればその身体に合わせて代替が可能なように思えるが、いかがだろうか。

 精神疾患

 最後に私の事例。私は、精神障害2級であり、労働や日常生活に制限がある。

 ここで詳しく病名などは明かさないが、定期的にうつ状態になる時期が来る病気で、現時点では完治はできないとされている。つまり、一生付き合っていくしかない自身の特性である。

 定期的にうつ状態になること。また、疲れる(医者はバッテリー切れと表現した)とうつ期に入りやすくなることを考えると長期間の集団生活は難しい*3

 これもまた趣旨が問われる。そのような長期間の集団生活は、絶対的に必要な形式であるのか。

 

僧堂の趣旨は言語化不可能?

 ここまで頻繁に僧堂の趣旨が問われると記述してきた。なぜなら、その趣旨が達成できれば既存の方法にとらわれる必要はないからである。趣旨がわかれば、障害となっている属性に合わせて、どのような方法ならそれが達成できるかを話し合えばいい。

 しかし、どうにもその趣旨がわからない。

 前述の私の障害について、あるOBに相談した。このような特性があるので、例えば通いにする、もしくは、1年ぶっ通しでなく細切れなスケジュールにすることによって問題を回避できないか、と問うた。これに対し、そのOBは「それはできない。我々は、長期間の集団生活によって趣旨が達せられると考えているからだ」と回答した。しかし、その趣旨は具体的になにかと訊くと、どうにもはっきりした回答が得られない。自分自身が趣旨を明確に答えられないのに、「長期間の集団生活」によってそれが達せられるとはどういうことなのだろう

 

 これは個人的推論であるが、禅宗の成り立ちが影響しているのではないか。

 橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』*4によると禅宗の特徴は「仏教の経典を無視すること、そして、戒律を無視すること」*5とし、以下のように紹介している。

 禅宗の開祖は、菩提達磨(Bodhidharma,ボーディダルマ)と言われています。(中略)そして、釈尊直伝の座禅法を伝承していると称していた。釈尊は、説法を多くの経典として残していますが、座禅法はパフォーマンスだから、テキストにならない。そして、成仏に大事なのは、経典もさることながら座禅修行であるというのです。それなら、経典を読んでいるひまに、釈尊直伝の座禅を習うべきだということになります。

 (中略)そして、釈尊の権威をたてに、戒律を無視することに決め、経典も自由に解釈しました。禅宗では、経典の「真意」を「超訳」的に解釈する、「問答」をよくやります。禅宗では「不立文字」といって、真理はテキストの表面的な意味を超えたところにあると考えます。*6

 単純に理解するに、文字よりも体験を重視するということなのかと思う。その行為の趣旨は実体験によって理解するべきであり、言語化は意味を成さない。

 これは、無学な私が勝手に解釈したことではあるが、実際に現役・OBの雲水と会話していて「まずはやってみろ」と議論を打ち切られることは多い

 

 なるほど、一理あるかもしれない。また、非言語化が宗教的意味を持つこともなんとなく理解できる。

 しかし、そのことが体のいい言い訳としてとても便利なことも事実である。すべての理不尽を「それによって趣旨が達せられる。しかし、それがなにかは言語化できない」と突っぱねることが可能なのである。

 上述した「まずはやってみろ」と議論を打ち切る行為がまさにこれにあたる。これを言う人物は様々にいたが、明らかに何もわかっていない人物が言語による反論に窮してこれを述べることが多々あった。自分はやっていると簡単にマウンティングがとれるし、相手は反論不能になる非常に便利な言葉である。*7

  しかし、同時に対話は成立しなくなる。当然、合理的配慮に向けての語り合うことはできないし、多様な代替など考えることもできなくなる。

 私はこのブログを「僧堂は、宗教的意義はさておいて、このような問題が起こりうるシステム上の不備がある。なので、宗教的意義ではなく問題が起こるシステムに目を向けて対話しよう」という姿勢で記述してきた。この話も同じで「非言語化に宗教的意味を見出すことは否定しないが、非言語化により対話が不能になる。なので、対話するにあたってそのような話法を使うのはやめよう」と私は主張する。

 僧堂の実情

 「僧堂の趣旨」は「僧堂で何の獲得を目指すか」とも言い換えられる。つまり、僧堂のOBは何かを獲得しているはずである。

 ここで私が出会った2人のOB・OGの発言を紹介したい。2人とも、在家出身で自らの意志で僧堂に入った人物であり、家の都合で僧堂に来る大多数の者*8と比べ、宗教に対する前提知識やモチベーションは段違いに高い。

 うち1人は「西田幾多郎などを読んで禅に関心を持って入ったけど、あの中(僧堂)にそんなものは欠片もなかった」「あれは運転免許とるための自動車教習所と同じようなもん」と語った。

 もう1人は十数年僧堂にいた人物で、僧堂をとても肯定的に評していた。一方で「実家が寺のやつで、至っている*9やつは殆どいないね。極稀にいるけど、殆どのやつは無関心」とも語った。そのような傲慢な語りが、より禅に近寄りがたくしているのではないかとも思うが、確かに現役雲水を見ているとその通りではある。

 しかし、ということは、ご自慢の僧堂システムは何の役にも立たないということではないか。少なくとも、宗教的に何かを会得するのは困難ということになる。殆どのものは、無関心、あるいは勘違い*10したまま僧堂を出ていく。もし「僧堂の趣旨」が何かしらの宗教的成熟にあるのであれば、現在の僧堂のあり方はうまく行っていないということになる。

 

臨済宗妙心寺派 僧堂のあり方を改めて考える

bunkajiho.co.jp

 最後に、このような記事を見つけたので触れたいと思う。

 僧堂のあり方について古参の修行者が意見交換を行ったとのことである。その中で、本記事にて扱ったような属性を持つ者への「配慮」についても議論したとある。

 私は禅宗について、ひどく保守のイメージを持っていたので、このような議題を扱うことに驚きがあった。そのような属性を持つ当事者の1人として、純粋にうれしく感じる。その上で、記事に記載されていること*11について、いくつか指摘したい。

 グループ討議では高齢者や心身に障がいがある人、トランスジェンダーの人に対する僧堂の配慮などについても話し合った。評席からは、受け入れは前提条件として、高齢者や障がいのある人について「僧堂に入る時点で報告をしてもらう必要がある」「生活の中で近しい人が判断をする」などの意見があがった。また、トランスジェンダーの人については、明確な答えに苦慮しつつ、「長期間の修行が難しい場合、安居会を利用する」「個人の事情を把握した上で、なるべく合わせた指導を行う」などが述べられた。*12

 以上が関連のある部分を抜粋したものである。

 まず、高齢者や障がいのある人の受け入れについて、「生活の中で近しい人が判断をする」とある。疾病性*13でなく事例性*14から判断するのは良いこと*15であるが、問題は受け入れない選択があるということである。この受け入れない選択がされた際、代替の手段がなければ、住職資格が得られないということになる。僧堂に入る人間の殆どは実家がお寺という出自である。そして、継がないと生まれ育った家が奪われる、いわば実家が担保にとられている状態となっている。そういった状態の中、望んでも住職資格が得られないというのは、特に高齢者や障がいのある人にとって酷な話ではないだろうか。

 一方で、トランスジェンダーの人について、(答えに苦慮しつつ)「長期間の修行が難しい場合、安居会を利用する」「個人の事情を把握した上で、なるべく合わせた指導を行う」と述べられたという。この2つのことは、トランスジェンダーの人にとどまらず、高齢者・障がい者にとっても重要なことである。おそらく、トランスジェンダーの人についての回答に苦慮した結果*16、その他の属性の人を含めた総論的な回答がここで出ただけだろうとは思うが、ぜひにすべてのマイノリティ属性を持つ人間に対してこのような姿勢で臨んでいただきたい。

 また、「12専門道場(僧堂)から長年修行を積んだ古参の修行者の評席12人が参加」とあるが、そもそも古参の修行者ということは僧堂という環境をサバイブできた人間ということである。全くの無意味とは思わないが、サバイブできた人間だけで有意義な意見交換はなかなか難しいのではと考える。彼らからみた我々が広い意味で異常であるように、我々からするとそのような人間は同じく広い意味での異常なのだ。学校をエンジョイできた人間が教師になることが多いため、適応できない生徒がスルーされるというのはよく言われる話であるが、それと同じ話なのである。

 

 しかしながら、前述したように、このようなテーマについて意見交換がされていることは喜ばしい。これは2019年の記事であるが、今どのような議論に発展しているのか。成熟した議論が行われていることを期待したい。

*1:そもそも年齢に限らず、体力というものは個人差が大きい。また、私のようなうつを抱えている人間や発達障害の人間は、同じことをしても一般的な人よりも疲れやすいという特性を持っている者も多い。

*2:追記。件のOBに本稿を見てもらったところ「出てってもらった」なんて言い方はしていないはずと指摘を受けた。「基本的に犯罪でもしない限りこっちから追い出すことはない」「腰痛の彼は自ら出ていき、その後腰痛でも可能な別の僧堂に行った」とのこと。他の件には冷静だったこのOBがこの件には憤慨を隠す様子がなかったところから、一定の信用がおける発言だと感じた。一方で、労働闘争の現場で頻繁に見られるように「積極的な追い出し」はなかったとしても腰痛により居づらくなる「消極的な追い出し」の可能性は指摘しておきたい。もちろん、この件についてどのようなプロセスがあったのかはわからない。「どうすればその状態で趣旨を達成できるかを一緒に考える」というプロセスが大切であり、そのようなプロセスがあった上で、結論として別の僧堂にスムーズに移ったのであれば一定の評価ができると考える。ただし、所属を変える負担を考えると、同じ僧堂で対応が最も望ましいとは思う。また、腰痛に対応できないということはその他の身体的ハンディにも対応できないということになるので、やはり、すべての僧堂で同じように受け入れ可能であることが望ましいと考える。

*3:長期間だとうつ期は必ず来ること。そして、他人といると疲れやすいことから、集団生活ではうつ状態が頻発すると予想されることから。

*4:橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006)

*5:橋爪 200頁

*6:橋爪 201-202頁

*7:例えば、話をブラック企業に置き換えるとこの話法の問題がわかりやすい。その働き方を批判した際に「やってもみずに言うな」と、それも使用者側から言われたらどうであろうか。「まずはやれ」「やらずに言うな」は告発を安易に無力化する話法なのである。

*8:私もその1人である。

*9:おそらく宗教、仏教、禅についての意と思われる。

*10:別記事でも書いたが、このOBは、体罰を自慢気に言う中堅雲水について「あぁ、5年目くらいがいいそうなことや」と反応した。しかし、5年も居てそういう勘違いが起こるなら、そのシステムには問題があると考えるのが普通だと思う。

*11:記事自体が短いので、実際にはより掘り下げて意見交換されている可能性には留意しなくてはならない。

*12:文化時報プレミアム 臨済宗妙心寺派 僧堂のあり方を改めて考える 

https://bunkajiho.co.jp/blog/?p=1602 2021年7月3日閲覧

*13:「「疾病性」とは疾病の有無や症状の程度に関することで、幻聴がある、統合失調症が疑われるなど専門家が判断する分野である。」一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセリング 産業カウンセラー養成講座テキストⅠ 改訂第7版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2017)337頁

*14:「「事例性(caseness)」とは、狭義には、本人の言動が以前の本人とくらべ、あるいは周囲の同じような立場の者とくらべ、どのくらい、どのように偏倚しているかを指す。」一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセリング 産業カウンセラー養成講座テキストⅡ 改訂第7版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2017)693頁

*15:一般に、会社などでは疾病性でなく事例性から考えるのが重要であるとされる。関係者は精神科医などの専門家ではないことや、病気そのものでなく実際に困っている事象を捉え解決する必要があることなどがその理由である。

*16:記事をみても、マイノリティ属性について語る上での知識が拙く感じる。また、私が直接話を聴いたある僧侶は「最近は精神障害者トランスジェンダーも増えてきているから、確かにその人達のことも考えていかないといけない」と語った。彼なりに、彼ができる範囲で、最大限理解をしようとしていることは実際に話して感じるところではあった。しかし、マイノリティ属性について「最近は増えてきたから」というのは、自身がそこらへんを気にしないで生きてこられたマジョリティの証であり、典型的な無理解の発言である。精神障害者トランスジェンダーは「増えてきた」のでなく、ずっと居た。居たうえで、無視され、踏まれ続けてきたのである。それがようやく少しずつ「声をあげられる土壌が育ってきた」ということなのである。マジョリティであることを恥じる必要はないが(そもそもマイノリティ当事者だって場面によってはマジョリティとなる)、マジョリティとしてどう振る舞うかは常に考える必要がある。