仏教が前提とするフィクションとは

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ztos.hatenablog.com

 ここまで、禅について私が考えていることを綴ってきたが、文章が複雑になるのを避けるために、本来語るべき前提をとばしてしまっていた。つまりは、仏教自体、更には宗教とは何か、ということについてである。

 

仏教についての私の理解

 仏教は「動物が生命循環している」*1というある種のフィクション*2である輪廻*3を前提している。そして、その輪廻から抜け出す(解脱)ためにゴータマ・シッダルダが試行錯誤し、覚りを開き、その結果解脱した。
 その後、同じように覚りを開いて輪廻から解脱したいと思う者が、ゴータマ・シッダルダを模倣した。その際、ゴータマ・シッダルダが試行錯誤した様々な行為のどの部分に着目するかで分技していき、禅宗では上記したような後世で認知行動療法的と言われる部分に着目し、その実践を目指している。
 というのが私のとても大雑把な理解である。これまた噴飯ものかもしれないが。

 

 したがって、僧堂は「禅の実践をする場」と上述したが、正確には「輪廻というフィクションを共有し、それを前提に、輪廻から抜け出したいという意思を持って行動する。そして、その方法として禅の実践を行う」のが僧堂という場であるというのが私の理解である。

宗教の意義 

 なお、ここで記述した「フィクション(=自明でないこと)の共有」はとても重要なことだと考える。

 

 またもや噴飯話を繰り返すことになりそうだが、ある社会学者に宗教について話をした際、デュルケームの『自殺論』という社会学の古典を紹介された。これに書かれているアノミー論が宗教の意義を説明しているとのことだった。

 アノミー論について私の雑な理解を記述すると以下のようになる。

 

 まず、この論は「生活が楽になる*4」ような、または「一国の繁栄を急激にもたらす*5」ような喜ばしい変革が起きた場合でも自殺率があがっていることに着目したものである。

 

 なぜ、喜ばしい変革でも自殺率があがってしまうのか。

 その理由は生物が持つ“欲求”にあるという。
 「どんな生物も、その欲求が十分に手段と適合していないかぎり幸福ではありえないし、生きることもできない*6しかし、「人間の肉体的構造のなかにも、心理的構造のなかにも、このような欲求傾向に限界を画してくれるものはなにもない*7その結果“欲求”は際限なく広がるが、最終的にはそれを充足する手段の限界を迎えてしまう。

人は行動し、運動し、努力することにいかなる快感を味わおうとも、そのうえになお、自分の努力が無意味でないこと、また自分がその歩みのなかで前進していることを感じていなければならない。ところが、いかなる目的にも向かっていないときには、またそれと同じことだが、目指す目的が果てしのない彼方にあるときには、人は前進していないも同然である。(中略)それゆえ、かりに手のとどかない目的を追い求めるならば、人は果てるところのない不満の状態をもって罰せられる。*8

 であるからして、「そうならないためには、なによりもまずこれらの情念に限界が画されなければならない」*9というのである。

 

 そして、社会、道徳、価値観なるものはその限界を定める。

 この圧力のもとでは、各個人は、自分の生活領域のうちにあって、自分自身の欲望のおよびうる限界点をそれとなく感じとり、それ以上の欲望をいだかないものである。*10

 だからこそ、その規範が崩壊すると“欲求”が際限なく広がり、その帰結として自殺につながるのである。

 ただし、社会が混乱におちいったときは、たとえそれが苦難にみちた危機から生じた混乱であろうと、幸運な、しかし急激な変化をともなう危機から生じた混乱であろうと、しばし社会はこの活動〔個人にたいする規制〕を行使することができなくなる。そして、さきに確認したあの自殺曲線の急上昇は、じつにここから起こってくる。*11

 

 私は、ここに宗教の意義があると理解した。
 そのようなアノミー*12の状態への対抗手段の1つとして、「自明でないことがらを前提としてふるまう」*13宗教は真価を発揮するのではないか。自明でないことがら=フィクションは、それ自体の是非を無視して、規範的権力を有する。それを実行する集団の規模が多ければ多いほど、その権力性、正当性は上昇する。その規範的権力こそが、“欲求”へのストッパーとなるのである。

 以上のことから、「フィクション(=自明でないこと)の共有」は重要なのである。
 


私が確認している禅宗の実態


 宗教の意義はフィクションの共有にある。
 そして、仏教におけるフィクションは輪廻であり、目的は輪廻からの解脱である。
 禅宗はその目的を達成する手段として前記事で記述したような認知行動療法的手法をとる。
 僧堂はその手段の実践をする場であり、当然輪廻からの解脱を目的としており、当然輪廻というフィクションを前提としていることになる。

 

 しかし、寺の実務や僧堂、禅宗関係者などをみると、どうにもそのようなフィクションを共有しているようには思えない。これでは、自分がそのフィクションを前提に行動してみても、ただの脳内妄想にしかならない。
 
 では、僧堂が、禅宗が前提としているフィクションとは何なんだろうか。
 そこで禅宗関係者に「禅宗における自明でないが前提に振る舞っている事柄は何か」を尋ねてまわっているのだが、今の所、まともな回答は得られていない
 雲水やOBの熟練された宗教観が高度すぎて私が理解できない、という状態であれば良いのだが、残念ながらそういうわけではない。彼らの殆どが、そのような宗教的熟練と無縁なのである。宗教の意義など微塵も考えていなく、当然フィクションの共有などしていない。
 極稀に宗教的熟練を感じるOBもいるのだが、そのような者は初めから宗教的関心を持っており、独学での知識が充実している。僧堂において、獲得した概念ではないように思う*14

 ここから推測するに、もしかすると、僧堂とは宗教的意義を持たない機関なのではないか。

 

 このことについては次の記事で考察する。

ztos.hatenablog.com

*1:橋爪大三郎『世界がわかる 宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006) 143

*2:=自明でないこと。「宗教とは自明でないことを前提に振る舞うことである」橋爪 24頁

*3:「仏教は輪廻を前提にしており、輪廻を信じなければ仏教は理解できないのですが、日本人は信じていません。輪廻を信じるなら、祖先崇拝はありえません。仏壇”先祖の位牌を祀る”のは、仏教でなく道教のやり方です」橋爪 142頁

*4:「もしも生活が苦しくなるために自殺が増大するならば、生活が楽になるときには、自殺が減少するはずであろう。ところが、いちばんの必需品である食糧の値が騰貴するとき、一般に自殺は変わらないが、反対にその値が下落するときには、自殺の平均以下への減少はみられない」デュルケーム著 宮島喬訳『自殺論』(中公文庫、1985)294頁

*5:「貧困のいささかの増加もなしに、自殺の増加が起こる。したがって、一国の繁栄を急激にもたらすような歓迎すべき危機でさえ、経済的破綻とまったく変わりのない影響を自殺におよぼすことになる」デュルケーム 295頁

*6:デュルケーム 301頁

*7:デュルケーム 301頁

*8:デュルケーム 303頁

*9:デュルケーム 304頁

*10:デュルケーム 306頁

*11:デュルケーム 310頁

*12:無規範状態。

*13:橋爪 24頁

*14:具体的には

合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

で紹介した2人だが、記述したとおり、1人は僧堂にそのような宗教的価値はなかったと話した。もう1人は僧堂に意義を見出してはいたが、既に獲得していた宗教的知識を僧堂で育むことに(本人的に)成功したという風に見受けられた。そして、その他大勢の“至っていない”雲水を蔑む発言をしていることから、彼の目線に立ったとしても、僧堂が完璧な宗教的習熟の場とは思えない。また、この御仁が偶々そうだっただけだとは思うが、知識を有するがうえに知識マウントをとるムーブを多くされていた。この知識マウンティングに対し当時は自分がダメなやつなんだと自罰的になっていたが、説明もせずにただテクニカルタームをマウント的に持ち出す行為は対話とならない、批判されるべき話法であった。私自身もそれをしないように努力しないとならないし、これを読んで対話しようと思ってくれたあなたにもこのことをお願いしたい。