想定問答集①「つらいことから逃れたいだけじゃないか?」「警策で叩くことも暴力と否定するのか?」

 ここでは、想定される問答について記述していく。

 実際に言われたセリフについては、注釈でその人物の立場や年齢を記述する。

 (追記)今後のコミュニケーションに影響するため、上記のような注釈は削除した。また、実際に言われたセリフであっても、あくまで私というフィルターを通したものであり、その人物の意図した意味合いになっていない可能性もある。

 あくまで「想定問答」として読んで頂ければ幸いである。

 

 

「グダグダ言っているが、つらいことから逃れたいだけではないか?」

→もちろん、そのとおりであるし、つらいことをしなくていい社会が健全な社会であると考える。「つらいことから“逃げている”」という言葉は、呪いの言葉だ。

 「俺たちは大変なのに、あいつは逃れてる」ではなく、「俺たちもあいつのように逃れさせろ」が正しい主張と考える。皆で不幸になろう教から脱するべきである。

 

 また、「つらい」という言葉には様々な意味が内包される。

 上記した「つらい」や僧堂関係者が言う「つらい」は、つらい経験のための「つらい」*1だったり、逃げずに耐えたその事自体が素晴らしいという意味を持つ。しかし、それは上記したように呪いの言葉であるし、マッチョ主義の維持・継承にほかならない。また、「つらい=理不尽 に耐えること」を賛美する文脈では、結果、理不尽に正しく抗議することができなくなり、為政者や立場が上の存在に利する言葉となる。

 

 一方で「何かをなすために苦労する」ことも「つらい」と表現することがある。こちらの「つらい」は場合によって必要なことであるかもしれない。受験勉強や資格試験、スポーツアスリートなどもそうであろうか。何かの目標のために「つらい」けど頑張る。

 ここで課されていることは、勉強なり練習なり、自分に負荷がかかるものである。ただし、前者の「つらい」と違い、他者から不当に理不尽に精神的に追い詰められるようなものではない*2あくまで、目標のために自ら負荷を課しているということである。これは人から強制されたり、ましてや、やらなかったからと“逃げている”などと言われるものであってはならない。例えば、行為としては同じ「練習」であっても、それが「この練習に耐えきって一人前」「できないやつは甘えてる」のように村社会に認められるための踏み絵となっているようでは前者の「つらい」と同じであり批判されるべきものである。

 このブログを書くことだって何なら「つらい」。それなりに労力がかかるし、書いている内容も感情が負の方向に揺り動かされるものなので、実際これを書き始めて半年重いうつ状態に陥った*3。そのような負荷のかかる「つらい」ことではあるが、自分の意見を人に伝えるための前向きな行動であるし、何より自分が成そうとすることを成すために自らの意欲でやっている。

 

 僧堂で行われていることも、一部は後者の「つらい」に入ることができるかもしれない。*4しかし、それは他人によるものであってはならないのである。

 

坐禅中に警策で叩くのも行為的には暴力だが、体罰を認めないということはこれすらもダメと言うつもりか」

→その発想はなかった。

 これは、都合よく定義を広げて告発を無力化する話法*5であると考える。

 

 このブログで私が指摘している「暴力」は、読んでもらえばわかるように、理不尽に、権力関係*6がある中、振るわれる有形力の行使を指している。だからこそ、体罰以外についても、それは「暴力(=有形力の行使)」でないにしろ、理不尽な指導として断罪しているのである。

 

 坐禅中に警策で叩く行為はどうだろうか。

 たしかに嫌がらせでわざと芯を外して痛がらせるなんて話は時々聞くし、その場合は暴力と取れるかもしれないが、基本的には、理不尽に、権力関係を振りかざしてはいないだろう。そういう型と受けとるのが普通であると思う。

 

 このブログをきちんと読んでくださった方には「いや、おまえ庭詰で志願者を引っ剥がす行為を型としての暴力と批判してたやんけ」*7と鋭い指摘をされるかもしれない。

 しかし、あれはまさに「暴力」そのものを演じているわけで、雲水側は暴力を学習してしまう=暴力の敷居が下がる危険があるし、志願者側はまさに低頭を強制されるという権力関係の中で「暴力」を受けている。

 坐禅中に警策で叩く行為でそのようなことが起こるだろうか。警策を振るう側がそれで別の場面において暴力行使の敷居が下がるとは思えないし、振るわれる側もそれで屈辱などは感じないだろう。もちろん文脈によっては暴力となる場合もある。嫌がらせの例などがそれにあたる。それはそれで断罪すべきであるが、上記のとおり、基本的にはこのブログで批判している「暴力」とはいえない。

 

 以上が、「坐禅中に警策で叩く行為は、このブログで批判している暴力ではない」という私の理屈である。が、そもそもこんなことを丁寧に論立てしないとわからないこと自体が論外であると感じる。

 いきなり批判されて防衛機制が働いたのだとは思うが、頼むからこのブログで書いていることに真正面から向き合ってほしい。

 

*1:

体罰を正当化する理屈とその問題点 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

*2:ただ、偏見かもしれないが、スポーツの世界ではこれが良しとされ、「精神が鍛えられる」などと言われたりする印象がある。精神を鍛えるがどのような意味を指すのか不明だが、少なくともそのような指導をしてしまう指導者をみるに精神的な成熟とは真逆の方向にあると思う。「理不尽に耐えられるようになる」ことを「精神が鍛えられる」と表現しているのなら、確かにそのやり方で効果は出るだろうが、「理不尽に耐えられる」ということは「理不尽に正しく抗議できない」ということであり、それは結果為政者に利する精神である。

*3:定期的にうつ期がくる病気を患っているので、それ自体はよくあることだが、そのうつ期に陥るきっかけの1つにこのブログ執筆があったと思う。

*4:僧堂本来の趣旨はそういうものであると願っている。その負荷に自分が耐えられるかという問題はあるが、少なくともそれを否定する気はない。だからこそ、合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-に書いたように僧堂の趣旨はなんであるか問うているのである。

*5:例えばAへの批判に対し、Aの是非を論ずるのではなく、Aを批判するならBやCもダメということになるがそれでは社会が成り立たなくなるではないか、などと反論すること。これは一見反論しているようで、勝手に批判対象を広げて、本来論ずるべきであるAへの評価を避けている。

*6:単に上下関係と言ってもいい。立場が同等でない、力の不均衡があることを指してこの言葉を使っている。

*7:

僧堂における体罰と理不尽な指導 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-