僧堂における体罰と理不尽な指導

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

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体罰

 

 とにかく一番良く聞き、なおかつ、雲水らが自慢げに話すのが体罰に関する事である。
 例えば、「何か言おうものならパァンやで」と平手をするジェスチャーとともに笑いながら言う。「九州には厳しくて有名な僧堂があって、そこにいったやつは鼓膜破られて逃げてきたんや」とニヤニヤしながら言う。等。


 どう考えても、暴行、傷害の刑事事件だと思うのだが、なぜにこうも自慢げに話せるのか。

 前者に至っては妙心寺で行われている一般企業向けの新人研修での一言であり、これは一般の人間に言っても大丈夫なことと考えているのが恐ろしい。


 また、ある僧侶に話を聞きに行った際は「元受刑者が、元自衛隊員が、刑務所より自衛隊よりきついと嘆くんだよ(笑) ……この話するとみんな笑うのに君は元気がなくなるね」という言葉が印象的だった*1


 暴力事件を笑い話にできると思っていることに人格を疑う。しかし、私が今まで出会った僧堂経験者はそのように語ることが多い。

 

理不尽な指導

 

  また、直接的な暴力でなくとも、理不尽な指導*2も多い。

 

 これまたよく聞く例えが、「先輩雲水がカラスは白だといったら白と肯定しなくてはならない」というものである。上が言うことは絶対という時代錯誤*3なものである。

 もちろん、おかしいのは皆わかっているが、「ここではそういうルールだから」「資格得るまでの間だから」とそれに従う。これが服従への始まりだという話は以下の記事で述べる。

ztos.hatenablog.com

 その他に、怒号を発する、厳しいノルマ*4を課す、私的刑罰など。

 

 怒号については、私自身も目撃している。

 私も関わった行事のリハーサルをしている場面。

 1年目の雲水がお経を詠みながら打楽器を操作するが、1つ間違えると3年目の雲水から「そこは大鐘や!」と別室にいる私のところまで聞こえるレベルの怒号が飛ぶ。

 雲水関係者以外も多い場で、この威圧するような行為ができるということは、おそらく素直に正しい行為と考えているのだろう。*5

 

 このような怒号・暴言について、詳しくは後述するが、その効果としては「作業の処理能力、創造性、報告意欲、他人をサポートする意欲などが下が」*6り、また、その積み重なりにより「この世にいたくない」と自殺に発展することもある。重大な加害行為である。

 

 私的刑罰について、私が見聞きしたものだと外出時のペナルティがある。

 月に数日しかない外出日*7の際、作務衣でなく私服を着たことを理由に今後の外出を禁止する罰を与えたという。つまり、私人による自由刑*8である。

 なんの権限があってそれができるのか。これは、ただの監禁である。

 

 また、もはや指導でもなんでもないのだが、「入ってすぐでお経がうまいといじめられるからな」とニヤニヤしながら3年目の現役雲水に言われたことがある。

 理不尽この上ないし、それを3年目の雲水がなんの反省もなく言っていることが恐ろしい。当時この僧堂のトップは4年目の雲水の1人だけで、この3年目の雲水はナンバー2の立場にあった。率先してそのようないじめを止めるべき立場でありながら、面白いあるあるネタ*9かのように言い放ったのである。

入門試練の時点で

 僧堂に入るには5日間から1週間に及ぶ入門試練を経なければならない*10。いわゆる「庭詰*11」「旦過詰*12」である。

 あるブログには、庭詰の最中に暴力的に引っ剥がえされ外に投げ出され血が出るほどの怪我をしたとあった。これはずっと同じ姿勢の苦痛を和らげるための雲水側の配慮だという。しかし、暴力は暴力である。姿勢を崩す機会を与える方法は暴力による必要はない。そして、ある種儀式的な、互いに了承している型どおりの行為とはいえ、暴力をそれに組み込んでいる*13時点で、このブログのサブタイトル通り、理不尽と暴力の禅と言われても仕方がない。

 対本宗訓『禅僧が医師をめざす理由』には、「脚が痛くて動こうものなら罵声が飛んでくるし、時には外へ引きずり出されることすらある*14」と記述されている。前述の通り、罵声は暴力であるし、「外へ引きずり出される」はいうまでもない

 同書には「この試練を克服できないようでは道場の厳しい修行はとうてい勤まらない。中には途中で抜け出す修行志願者もいる*15」と記述されるが、暴力に正しく疑問を呈することすらできない者のみが雲水となるのならば、理不尽と暴力の禅寺になるのも当然であろう。

 そもそもが、この一連の入門試練が理不尽である。入門で低頭懇願することを強制しておきながら、それを(時には暴力を用いつつ)断りそれでもなお数日に及び低頭懇願させて初めて迎え入れる。如何な伝統、歴史があろうとも、この型自体が今の時代*16にそぐわない大問題であることを関係者は認識する必要があると考える。

 体罰や理不尽な指導の効果

  上記のようなことが何を引き起こすか。

 

 まず、体罰暴力の敷居を下げる。人は真似をする動物であり、無意識に他人の態度を模倣する。態度の感染が起こる。

 このことをある雲水に話した際、「そんなことはしないよ」と言っていたが、自分の意識でなんとかできると思っていること自体が危ない。

 私達は他人の言動やメディアの振る舞いから無意識に態度を学んでいる。例えば、お笑いにおいて、人の欠点をあげつらうことで笑わせる手法がある。それにより、その欠点は"いじって"いいんだ、とその欠点をあげつらうことへの敷居が下がる。

 

 荻上チキ『いじめを生む教室』ではこのように書かれている。

 

体罰の多い教室はいじめが頻発する理由の1つは)先生が体罰を振るうことによって、生徒に対して、暴力や制裁にゴーサインを出してしまうこと。教師による体罰は、正義を口実にすれば、特定の生徒に対して暴力を行うことも許されるのだと生徒に学習させてしまう、すなわち「懲らしめの連鎖」を生んでしまうのです。*17

 

 理不尽な指導についても下記のように述べている。

 

(理不尽な指導は)周りの生徒へも影響をもたらします。「あの人また怒られている」というからかいのキッカケを与えたり、「あの子にならこういうことをしても許されるだろう」というラベリングを促したりすることで、いじめを助長してしまうのです。*18

 

 また、その他に、体罰自体がいじめの原因であるストレッサーになる*19とも書かれている。

 体罰等によるストレスを受けた際、その発散の仕方が限られる場では、いじめが発散方法として横行する。*20

 もちろん、理不尽な指導についても同じくストレッサーとなる。

 

 また、いじめを生むだけでなく、これらの行為を受けることで、心理面への被害も生まれる。

 

理不尽な指導を受け、自殺をしてしまった生徒たちの手記を見ると、他の生徒たちの前で叱咤されたり、濡れ衣を着せられるなどして、大きな辱めを受けたことにより、「もうこの場にはいたくない」と感じていたことがわかります。そしてそれが「この世にいたくない」という気持ちに発展してしまうのです。

(中略)

「みんなから嗤われる存在になってしまった」という自尊心の低下を招いてしまい、それが不登校、自殺につながってしまうわけです。*21

 

 『いじめを生む教室』は学校でのいじめを扱っているので、子どもにとって学校は大きなシェアを占める居場所であり、そこに居場所がなくなることによって上記のようなことが起きると記述されている*22

 しかし、僧堂は学校以上に大きなシェアを占める居場所である。というか、そこにしか居場所がない。外出が厳しく制限され、外出時も雲水であることが義務付けられるからだ*23

 このような環境で自尊心が保てるだろうか。少なくとも私に自信はない。

 

 更に、影響は当事者のみにとどまらない

 

直接暴言を吐かれた人の作業の処理能力、創造性、報告意欲、他人をサポートする意欲などが下がるのはもちろんのこと、他人が暴言を吐かれるのを目撃しただけの人にも同様のことが起きることがわかっているのです。*24

  体罰を正当化する理屈

 このように体罰や理不尽な指導の悪影響は凄まじい。

 では、彼らはなぜこのようなことをするのか。

 話を聞いてみると、これらの行為を正当化できる理屈が彼らにはあるらしい

 続きは以下の記事に記す。

ztos.hatenablog.com

*1:この僧侶は某僧堂十数年在籍していた。体罰を自慢気に言う中堅雲水の話をこの僧侶にすると「あぁ、5年目くらいがいいそうなことや」と返答された。このセリフから、“5年目”を下に見て、かつ、その行為に否定的ということが読み取れる。で、あるならば何故そのような“5年目”を生み出す僧堂を肯定できるのか。“5年目”じゃわからんけど、十数年いた自分は違うという傲慢さがみえるが、私からはそのシステムを肯定している時点で同じ穴の狢にしか見えない。

*2:そもそもが指導ではなく、完全ないじめなのである。しかし、後述するように「つらい経験をさせてやる」ことが良いことだという価値観が形成されているので、彼らは指導のつもりなのだろう。

*3:無論、どの時代であろうと不適切ではあるが。

*4:ある元雲水は「掃除の範囲が広すぎてとても時間内にできないが、時間厳守なので間に合わないと怒られる。そこで私は発明したんだ。両手に雑巾を持って一度に2枚の雨戸を掃除する術を」と言って笑いをとっていた。思わず私も笑ってしまったが、純粋経験を会得するための作務(掃除)であろうのに、手段が目的にかわってしまっている。僧堂での日課(ノルマ)はこのような逆転現象に陥っているケースが多いのではないかと予想する。

*5:ちなみに、この1年目の雲水は33歳で、元々建設業で現場監督をしていたが、結婚相手がお寺の人間で跡継ぎがいないという、結婚相手のお家事情により雲水になったとのこと。一方で、3年目の雲水は寺の息子で、大学卒業してすぐに僧堂に入ったという。個人的には、年齢にかかわらず年上だろうが年下だろうが敬意を持つべきだろうとは思うが、年下からこのような扱いを受ける1年目33歳の雲水の気持ちを考えると胸が苦しくなる。むしろこのような思いを1年目でするからこそ、自分が上に立ったときはより威圧的になるのだろうか。

*6:荻上チキ『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書、2018) 96頁

*7:これ自体がおかしい。しかも、私が聞いた僧堂では、全日ではなく、太陽が出ている時間のみ。

*8:移動の自由の制限。懲役刑、禁固刑などがこれにあたる。

*9:実際そうなのだろう。

*10:対本宗訓『禅僧が医師をめざす理由』(春秋社、2001)30頁

*11:「大玄関の上がり框に低頭し、不動で入門を懇願する。それも上体をひねったかたちで頭を下げるわけだから、ものの三十分もしないうちに苦痛が体を襲う。しかしいくら苦しくとも動いてはならない。トイレと食事以外は終日その姿勢で熱意を示さなければならないのだ」対本宗訓 30-31頁

*12:「一室に閉じこめられて終日壁に向かっての座禅となる」対本宗訓 31頁

*13:後述するが、型とはいえ暴力行為をすることは、他のシチュエーションにおいても暴力の敷居を下げうる。暴力を受ける志願者側だけでなく、雲水側も悪影響を被る儀式なのである。

*14:対本宗訓 31頁

*15:対本宗訓 31頁

*16:正確にはどの時代であろうとも、ではある。

*17:荻上 95頁

*18:荻上 97-98頁

*19:荻上 95頁

*20:トップ記事

https://ztos.hatenablog.com/entry/2021/03/04/103812

参照

*21:荻上 97頁

*22:荻上 97頁

*23:これ自体が理不尽なルール

*24:荻上 96頁