いじめを生む僧堂
荻上チキ『いじめを生む教室』*1では、「いじめが起きやすい教室」のことを「不機嫌な教室」とよび、どのような環境が「不機嫌な教室」になるのか解説されている。
この「不機嫌な教室」と禅の僧侶になるための修行道場「僧堂」はとても似ている。というか、その強化版である。
私は諸般の事情からこの「僧堂」に行かなくてはならない。
しかし、複数の現役雲水*2やOBから話を聞くにつれ、暴力や理不尽にまみれた場所であるという印象を持った。また、「僧堂」のシステムそのものが「不機嫌な教室」に酷似する不適切な環境となっていると感じた。
このブログは、私が感じている問題を言語化することを目的として立ち上げた。
ブログの構成としては、このトップ記事をベースに、各論点について個別の記事で深く掘り下げる。個別の記事はこのトップ記事の中にそれぞれリンクを貼っている。
まずはこの記事を軽く読んでいただき、それからリンクをたどって各記事を読んでいただくのがわかりやすいかと思う。
【追記】
このブログについて、タイトルだけみて内容も読まずに感情論をぶつけてくる人がいるのは想定していた。しかし、このブログを好意的に読んでくれる人にも誤解されることが多々あったので、このブログの趣旨について予め記しておく。
このブログの趣旨は、僧堂システムが前述した「不機嫌な教室」と酷似するような不適切な環境にあることの指摘である。「僧堂でいじめが起こる(起こっている)」という指摘ではない*3。
このブログでは、荻上チキ『いじめを生む教室』に出てくる「不機嫌な教室」と僧堂の環境を比較することをベースとし、その後、各論としてそれぞれの問題について触れていく。
おそらく、このブログの主訴が「僧堂ではいじめが起こる(起こっている)」と勘違いされる一番の原因は『いじめを生む僧堂』というブログタイトルにあると思われる。しかし、このタイトルは、あくまで荻上チキ『いじめを生む教室』を種本としているとしていることからつけたものであるので、その点、勘違いしないでもらいたい*4。
このブログを通じて訴えたいのは、「僧堂は、荻上チキ『いじめを生む教室』に出てくる“不機嫌な教室”と酷似する不適切な環境にあるようだ」ということである。
初見の方は、ぜひその前提で本ブログを読んでもらいたい。
一度読んだ方で、この追記に気づいた方は、その視点でもう一度読んでいただけると幸いである。
僧堂はストレッサーが多く、逃げ場もなく、いじめが生まれやすい環境
いじめは、体罰や理不尽な指導・ルールなどのストレッサーが多い環境、そして、時間や場を管理されることにより発散の仕方が限られる環境、において発生しやすい。
僧堂はまさにその環境にある。
『いじめを生む教室』ではこのように述べられている。
いじめの議論の中で主要な理論の一つに「ストレッサー説」というものがあります。これは、児童・生徒が感じたストレスを発散する際、学校空間ではその発散の仕方が限られてしまっているがゆえに、非行や不登校、いじめといった逸脱行動が発生するのだという説です。*5
学校の教室というのは、他人に時間を管理されている環境なので、自分好みのストレス発散がなかなかできません。一方でいじめというのは、「それなりにおもしろいゲーム」なので、そういう形でストレスが発露してしまうのです。
しかし、いじめは、「なによりもおもしろいゲーム」ではありません。(中略)いじめという形でストレスを発散していた人が別の発散方法を手に入れると、いじめをしなくてもすむようになることがわかっています。問題は、学校では「クラスから離脱する」ことも、「ゲームやスマホなどを持ち込み、ストレス発散する」ことも禁じられていることです。*6
僧堂は体罰や理不尽な指導・ルールというストレス過多な環境であり、更に、その発散の仕方は学校以上に限られる状況にある。
このことについて、以下に記す。
体罰・理不尽な指導については
理不尽なルールについては
ストレス発散の仕方が限られる環境については
軍隊・ブラック企業との親和性
また、僧堂は軍隊やブラック企業と親和性が高い。どころか、ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』*7によれば、禅は積極的に戦争に加担していった歴史がある。そして、それは今ではブラック企業戦士を育成する企業禅という形で残っているとも。
『いじめを生む教室』では
日本軍人の手記や戦争体験記などを読むと、戦時下においては大人同士でもいじめが頻発していたことがわかります。固定化された組織の中で、ストレスの発散手段が非常に限られており、いじめという形で発散するしかなかったという点で、教室ストレスと似た側面があります。*8
と、大人であろうとも、軍隊のような環境は、いじめの起きやすい環境であると述べられている。
この点については以下に記した。
多様性のない僧堂
以上のように僧堂という場は、平均的な人間にとっても問題をはらんだ場であるが、一定の属性を持つ人にとっては更に厳しいものがある。
例えば、ある雲水は「30歳までに来ないと厳しいよ*9」と年齢を問題にする。また、あるOBは「こないだ入った1年目の雲水が腰痛になったから出てってもらった*10*11」と身体を問題にする。
しかし、禅の実践に年齢や身体は関係するのか。
私自身、精神障害2級であり、僧堂はおろか日常生活にも支障がある。
ここで重要な考え方は、合理的配慮と多様な代替である。
この点については、以下に記す。
構造への怒り、しかし、対話へ
以上の各記事に僧堂についての私の考えを記した。
かつてある雲水と議論した際、反論できなくなった雲水の口からモゴモゴと出た「宗教の世界に社会学*12持ち込まれても……。うちはうちのやり方やから……」というセリフが印象に残っている。
たしかに宗教とは「自明でないことがらを前提としてふるまうこと*13」である。
しかし、既に自明になっていることから逃れることはできない。宗教を人権侵害の免罪符にしてはならないのである。
このブログは僧堂への、更には男根主義・軍隊主義・体育会系・精神論などへの、怒りを芯としている。しかしながら、なるべくに論理的に、自分の考えをまとめたつもりである。
雲水志願者や1年目の雲水をみると、この理不尽・暴力・権力関係に気づきながら、自らの将来のため・家のためにと、耐え忍んだり、悲観的になっている者をみかける。私もその1人である。
彼らの殆どは、そのような構造の中でサバイブできないカッコつきの「弱い」自分を恥じ、自罰的になっている。私もその1人である。しかし、今まで記述してきたように、この僧堂のシステム自体が問題であり、罰するべきは自分でなく構造である。闘う言葉を持たないなら、このブログをぜひ利用してほしい。また、このような稚拙なブログに頼る必要がない者は、ぜひ自らの言葉を発してほしい。
そして、僧堂関係者の方。色々思うところはあるだろう。怒りを向けられたことに憤慨しているかもしれない。
しかし、前述のとおり、なるべくに論理的に記述してきたつもりである。なぜなら、対話を諦めていないからだ。別記事にて、このブログの姿勢について「僧堂は、宗教的意義はさておいて、このような問題が起こりうるシステム上の不備がある。なので、宗教的意義ではなく問題が起こるシステムに目を向けて対話しよう」と記述した。
私は大学で労働法を専攻していたが、担当教官が労働争議について「相手を跪かせるためのものでなく、双方にとって良いシステムに生まれ変わるための機会」であると語ったことがある。この問題もそうでありたい。
ぜひ、対話を、そして共に考えてほしい。
*1:荻上チキ『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書、2018)
*2:「僧堂」で修行する僧のこと。
*3:もちろん、いじめの発生しやすい「不機嫌な教室」と酷似しているという指摘なので、結果として通常の組織に比べ、いじめが起きやすい環境であると私は考えている。しかし、それが主訴ではない。また、いじめが起きやすい環境であるという部分に異議を申したいのであれば、「○○という前提が間違っているので、僧堂の環境は“不機嫌な教室”とは異質のものである」「前提は合っているが、○○という理屈から危惧されるようなことは起こりにくい」等の反論が必要であろうと考える。このような指摘はこちらの僧堂に対する解像度もあがるので、歓迎するところである。だが、例えば「うちでいじめはない」のような子供じみた水掛け論は言われても困ってしまう。
*4:正直なところ、このような短略的な勘違いを呼んでしまうのであれば、このタイトルをつけたのは間違いだったと感じている。機会があればそのうち変えるかもしれない。
*7:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア著(エイミー・ルイーズ・ツジモト訳)『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015)
*9:理由は、「1日3時間の睡眠で耐えれる体力がないと無理だから」とのこと。しかし、1日3時間の睡眠は健康上大きな問題があるし、それはどの年齢だろうと同じである。
*10:座禅に支障が出ることがその理由であると思われる。しかし、既存のプログラムを遂行できないから追放、ではなく、どうすればその状態で趣旨を達成できるかを「まず一緒に考える」ことがこの場合の正しい思考であり合理的配慮である。
*11:追記。件のOBに本稿を見てもらったところ「出てってもらった」なんて言い方はしていないはずと指摘を受けた。「基本的に犯罪でもしない限りこっちから追い出すことはない」「腰痛の彼は自ら出ていき、その後腰痛でも可能な別の僧堂に行った」とのこと。他の件には冷静だったこのOBがこの件には憤慨を隠す様子がなかったところから、一定の信用がおける発言だと感じた。一方で、労働闘争の現場で頻繁に見られるように「積極的な追い出し」はなかったとしても腰痛により居づらくなる「消極的な追い出し」の可能性は指摘しておきたい。もちろん、この件についてどのようなプロセスがあったのかはわからない。先の注釈に記したように「どうすればその状態で趣旨を達成できるかを一緒に考える」というプロセスが大切であり、そのようなプロセスがあった上で、結論として別の僧堂にスムーズに移ったのであれば一定の評価ができると考える。ただし、所属を変える負担を考えると、同じ僧堂で対応が最も望ましいとは思う。また、腰痛に対応できないということはその他の身体的ハンディにも対応できないということになるので、やはり、すべての僧堂で同じように受け入れ可能であることが望ましいと考える。