いじめを生む僧堂

 荻上チキ『いじめを生む教室』*1では、「いじめが起きやすい教室」のことを「不機嫌な教室」とよび、どのような環境が「不機嫌な教室」になるのか解説されている。

 この「不機嫌な教室」と禅の僧侶になるための修行道場「僧堂」はとても似ている。というか、その強化版である。

 

 私は諸般の事情からこの「僧堂」に行かなくてはならない。

 しかし、複数の現役雲水*2やOBから話を聞くにつれ、暴力や理不尽にまみれた場所であるという印象を持った。また、「僧堂」のシステムそのものが「不機嫌な教室」に酷似する不適切な環境となっていると感じた。

 

 このブログは、私が感じている問題を言語化することを目的として立ち上げた。

 

 ブログの構成としては、このトップ記事をベースに、各論点について個別の記事で深く掘り下げる。個別の記事はこのトップ記事の中にそれぞれリンクを貼っている。

 まずはこの記事を軽く読んでいただき、それからリンクをたどって各記事を読んでいただくのがわかりやすいかと思う。

 

【追記】

 このブログについて、タイトルだけみて内容も読まずに感情論をぶつけてくる人がいるのは想定していた。しかし、このブログを好意的に読んでくれる人にも誤解されることが多々あったので、このブログの趣旨について予め記しておく。

 このブログの趣旨は、僧堂システムが前述した「不機嫌な教室」と酷似するような不適切な環境にあることの指摘である。「僧堂でいじめが起こる(起こっている)」という指摘ではない*3

 このブログでは、荻上チキ『いじめを生む教室』に出てくる「不機嫌な教室」と僧堂の環境を比較することをベースとし、その後、各論としてそれぞれの問題について触れていく。

 おそらく、このブログの主訴が「僧堂ではいじめが起こる(起こっている)」と勘違いされる一番の原因は『いじめを生む僧堂』というブログタイトルにあると思われる。しかし、このタイトルは、あくまで荻上チキ『いじめを生む教室』を種本としているとしていることからつけたものであるので、その点、勘違いしないでもらいたい*4

 このブログを通じて訴えたいのは、「僧堂は、荻上チキ『いじめを生む教室』に出てくる“不機嫌な教室”と酷似する不適切な環境にあるようだ」ということである。

 初見の方は、ぜひその前提で本ブログを読んでもらいたい。

 一度読んだ方で、この追記に気づいた方は、その視点でもう一度読んでいただけると幸いである。

 

僧堂はストレッサーが多く、逃げ場もなく、いじめが生まれやすい環境 

 いじめは、体罰や理不尽な指導・ルールなどのストレッサーが多い環境、そして、時間や場を管理されることにより発散の仕方が限られる環境、において発生しやすい。

 僧堂はまさにその環境にある。

 

 『いじめを生む教室』ではこのように述べられている。

 

 いじめの議論の中で主要な理論の一つに「ストレッサー説」というものがあります。これは、児童・生徒が感じたストレスを発散する際、学校空間ではその発散の仕方が限られてしまっているがゆえに、非行や不登校、いじめといった逸脱行動が発生するのだという説です。*5 

  学校の教室というのは、他人に時間を管理されている環境なので、自分好みのストレス発散がなかなかできません。一方でいじめというのは、「それなりにおもしろいゲーム」なので、そういう形でストレスが発露してしまうのです。

 しかし、いじめは、「なによりもおもしろいゲーム」ではありません。(中略)いじめという形でストレスを発散していた人が別の発散方法を手に入れると、いじめをしなくてもすむようになることがわかっています。問題は、学校では「クラスから離脱する」ことも、「ゲームやスマホなどを持ち込み、ストレス発散する」ことも禁じられていることです。*6

 僧堂は体罰や理不尽な指導・ルールというストレス過多な環境であり、更に、その発散の仕方は学校以上に限られる状況にある。

 このことについて、以下に記す。

 

 体罰・理不尽な指導については

 

ztos.hatenablog.com

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 理不尽なルールについては

 

ztos.hatenablog.com

 

 ストレス発散の仕方が限られる環境については

 

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軍隊・ブラック企業との親和性

 

 また、僧堂は軍隊やブラック企業と親和性が高い。どころか、ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』*7によれば、禅は積極的に戦争に加担していった歴史がある。そして、それは今ではブラック企業戦士を育成する企業禅という形で残っているとも。

 『いじめを生む教室』では

 日本軍人の手記や戦争体験記などを読むと、戦時下においては大人同士でもいじめが頻発していたことがわかります。固定化された組織の中で、ストレスの発散手段が非常に限られており、いじめという形で発散するしかなかったという点で、教室ストレスと似た側面があります。*8

 と、大人であろうとも、軍隊のような環境は、いじめの起きやすい環境であると述べられている。

 

 この点については以下に記した。

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多様性のない僧堂

 以上のように僧堂という場は、平均的な人間にとっても問題をはらんだ場であるが、一定の属性を持つ人にとっては更に厳しいものがある。

 例えば、ある雲水は「30歳までに来ないと厳しいよ*9」と年齢を問題にする。また、あるOBは「こないだ入った1年目の雲水が腰痛になったから出てってもらった*10*11」と身体を問題にする。

 しかし、禅の実践に年齢や身体は関係するのか。

 私自身、精神障害2級であり、僧堂はおろか日常生活にも支障がある。

 ここで重要な考え方は、合理的配慮と多様な代替である。

 

 この点については、以下に記す。

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構造への怒り、しかし、対話へ

 以上の各記事に僧堂についての私の考えを記した。

 かつてある雲水と議論した際、反論できなくなった雲水の口からモゴモゴと出た「宗教の世界に社会学*12持ち込まれても……。うちはうちのやり方やから……」というセリフが印象に残っている。

 たしかに宗教とは「自明でないことがらを前提としてふるまうこと*13」である。

 しかし、既に自明になっていることから逃れることはできない。宗教を人権侵害の免罪符にしてはならないのである。

  

 このブログは僧堂への、更には男根主義・軍隊主義・体育会系・精神論などへの、怒りを芯としている。しかしながら、なるべくに論理的に、自分の考えをまとめたつもりである。

 雲水志願者や1年目の雲水をみると、この理不尽・暴力・権力関係に気づきながら、自らの将来のため・家のためにと、耐え忍んだり、悲観的になっている者をみかける。私もその1人である。

 彼らの殆どは、そのような構造の中でサバイブできないカッコつきの「弱い」自分を恥じ、自罰的になっている。私もその1人である。しかし、今まで記述してきたように、この僧堂のシステム自体が問題であり、罰するべきは自分でなく構造である。闘う言葉を持たないなら、このブログをぜひ利用してほしい。また、このような稚拙なブログに頼る必要がない者は、ぜひ自らの言葉を発してほしい。

 

 そして、僧堂関係者の方。色々思うところはあるだろう。怒りを向けられたことに憤慨しているかもしれない。

 しかし、前述のとおり、なるべくに論理的に記述してきたつもりである。なぜなら、対話を諦めていないからだ。別記事にて、このブログの姿勢について「僧堂は、宗教的意義はさておいて、このような問題が起こりうるシステム上の不備がある。なので、宗教的意義ではなく問題が起こるシステムに目を向けて対話しよう」と記述した。

 私は大学で労働法を専攻していたが、担当教官が労働争議について「相手を跪かせるためのものでなく、双方にとって良いシステムに生まれ変わるための機会」であると語ったことがある。この問題もそうでありたい。

 ぜひ、対話を、そして共に考えてほしい。

*1:荻上チキ『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書、2018)

*2:「僧堂」で修行する僧のこと。

*3:もちろん、いじめの発生しやすい「不機嫌な教室」と酷似しているという指摘なので、結果として通常の組織に比べ、いじめが起きやすい環境であると私は考えている。しかし、それが主訴ではない。また、いじめが起きやすい環境であるという部分に異議を申したいのであれば、「○○という前提が間違っているので、僧堂の環境は“不機嫌な教室”とは異質のものである」「前提は合っているが、○○という理屈から危惧されるようなことは起こりにくい」等の反論が必要であろうと考える。このような指摘はこちらの僧堂に対する解像度もあがるので、歓迎するところである。だが、例えば「うちでいじめはない」のような子供じみた水掛け論は言われても困ってしまう。

*4:正直なところ、このような短略的な勘違いを呼んでしまうのであれば、このタイトルをつけたのは間違いだったと感じている。機会があればそのうち変えるかもしれない。

*5:荻上 93頁

*6:荻上 94頁

*7:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア著(エイミー・ルイーズ・ツジモト訳)『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015)

*8:荻上 94頁

*9:理由は、「1日3時間の睡眠で耐えれる体力がないと無理だから」とのこと。しかし、1日3時間の睡眠は健康上大きな問題があるし、それはどの年齢だろうと同じである。

*10:座禅に支障が出ることがその理由であると思われる。しかし、既存のプログラムを遂行できないから追放、ではなく、どうすればその状態で趣旨を達成できるかを「まず一緒に考える」ことがこの場合の正しい思考であり合理的配慮である。

*11:追記。件のOBに本稿を見てもらったところ「出てってもらった」なんて言い方はしていないはずと指摘を受けた。「基本的に犯罪でもしない限りこっちから追い出すことはない」「腰痛の彼は自ら出ていき、その後腰痛でも可能な別の僧堂に行った」とのこと。他の件には冷静だったこのOBがこの件には憤慨を隠す様子がなかったところから、一定の信用がおける発言だと感じた。一方で、労働闘争の現場で頻繁に見られるように「積極的な追い出し」はなかったとしても腰痛により居づらくなる「消極的な追い出し」の可能性は指摘しておきたい。もちろん、この件についてどのようなプロセスがあったのかはわからない。先の注釈に記したように「どうすればその状態で趣旨を達成できるかを一緒に考える」というプロセスが大切であり、そのようなプロセスがあった上で、結論として別の僧堂にスムーズに移ったのであれば一定の評価ができると考える。ただし、所属を変える負担を考えると、同じ僧堂で対応が最も望ましいとは思う。また、腰痛に対応できないということはその他の身体的ハンディにも対応できないということになるので、やはり、すべての僧堂で同じように受け入れ可能であることが望ましいと考える。

*12:特にこのとき社会学を持ち出した覚えはないのだが、とにかくそう言われた。

*13:橋爪大三郎『世界がわかる 宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006)24頁

僧堂の趣旨は宗教にはない? 権威付けの男根主義システム僧堂

 

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

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ztos.hatenablog.com

 

もう1つの僧堂の趣旨

 ここまで、宗教的意義から僧堂の趣旨を考えていった。
 第2節では僧堂は禅の実践をする場であると定義した。しかし、実はもう1つ思っていたことがあった。
 それは、僧堂の趣旨は宗教的意義にあるのではなく、現実には研修機関的な意味合いの方が強いのではないかということである。

 

 これは、現役雲水と交流するなかで強く感じるところである。
 宗教の話は通じないが、お家の話となると会話がスムーズになる。お家の話とは、つまり、実家の寺のことである。
 「自分が僧堂を出て住職になることで檀家が安心する」「住職である父親との約束で希望する学部に合格できなかったら僧堂に入って家を継ぐことになっていた」「大学院での研究を継続したいが、就職が不安。安心して研究に打ち込むために、最悪でも家を継げるように僧堂に入った」
 私の曲解ではなく、これが平均的な雲水なのである。かくいう私も動機については大差ないので、これを批判する気はさらさらない*1

 

 また、10数年いたというOBに本稿を見てもらったところ、何の具体的な理屈もなしに感情的に怒りを表明されていた。曰く「こちらは相談に乗ってあげているだけで対話などしていない」とのことだった。*2
 しかし、宗教者たるもの、そのような対話ができないようではその資質を欠いているとしか言いようがない。*3少なくとも僧堂における宗教的意義について話せないようでは、論外であろう。
 このOB個人の資質であるのか。その可能性も大いにあるが、10数年いてこの有様ではやはり僧堂に宗教的意義はないのではないか

 

 では、僧堂の趣旨が宗教的意義でなく研修にあるとして、それはどのようなものか。

 まず、一番に考えられるのは、住職となったときに必要な実務的な研修であろう。

 

実務的な研修とは


 住職として必要な研修だとするならば、宗教的習熟を目的とするべきではないかと思われるかもしれないが、私の見知る限り、住職が宗教的に無知でも実務に支障がでる場面は少ない
 檀家だから宗教に関心があるかというとそうではない。信心深く見える人でも、その関心を紐解いていくと宗教的な関心ではなく風習的関心なことが多い。宗教的な疑問を問い論ずるのではなく、例えば、仏壇の供えものはどうしたらよいか、命日にはどうすればいいか、初盆はどう飾り付けをすればよいかといった形式的なものである。これらはその土地によって変わるものも多く、住職よりもその地に長くいる高齢者の方が詳しかったりする。つまりは、風習なのである。

 

 また、これらは先祖を祀る作法などへの関心である。このことは宗教的に大きな矛盾をはらむ。
 そもそもが仏教は輪廻を前提としている。
 以前に注釈でも引用したが『世界がわかる宗教社会学入門』にはこう書かれている。

仏教は輪廻を前提にしており、輪廻を信じなければ仏教は理解できないのですが、日本人は信じていません。輪廻を信じるなら、祖先崇拝はありえません。仏壇”先祖の位牌を祀る”のは、仏教でなく道教のやり方です*4

 つまり、仏教という宗教の意義を中心に考えると、先祖を祀る作法などは関係のない話となる。
 しかし、現に檀家が求めるのはそういうことものであり、お寺の経営的にもそのような先祖崇拝から発するものが主な収入源となる。
 また、この感覚は大凡の雲水らの感覚とも一致するところだと思われる。

 

 さて、では具体的な研修はと問われると、私は中にいる人間ではないので明確な回答はできない。
 あるOBは「(人手が足りなければ)法事の際に雲水を呼んでくれれば、彼らの勉強になる」と発言していたので、そのような形式的な学びの機会もあるのだろう。

 

研修機関僧堂の実体


 ただ、そのような研修であれば通いで十分対応可能である。合理的配慮も成しやすいであろう。
 しかし、実際に耳にするのは、そのようなものではない。


 とにかく、座禅に、読経に、作務。上記のような学びの機会もおそらくあると思うのだが、頻繁に耳にするのはこの3つであるので、やはりこれらが僧堂生活の大きな割合を占めているのだと思う。
 これらは

僧堂の趣旨を問うー合理的配慮を達成するためにー - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

仏教が前提とするフィクションとは - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

で記述してきたようなフィクションを前提とするならば、大きな割合を占めるのは当然のことだと思われる。しかし、雲水らをみるに、そのようなフィクションを前提としている様子はない。

 

 では、研修機関としての僧堂の実体は何なのか。
 私は、箔付け・権威付けのための実績作りにあるのだと考える。それも、(無意味な)苦痛に耐えた実績である。
 それは、檀家の納得を得られるだろう。他の同業者の納得を得られるだろう。
 それが無意味なものであっても、苦痛に耐えることが未だに美学的に語られることのある現在の日本では、一定の権威付けになる。繰り返すが、全く無意味なものであっても、である。
 また、そのような不条理な苦痛は男根主義的結束も生むだろう。「ようやく1人前の男になれたな」と同じ意味合いである。*5
 その箔付け・権威付けをもって、住職になることを周囲に納得させるのである。

 

対話か闘争か


 ここまで宗教の意義、仏教の前提、そこから生まれた禅の実践について記述した。そして、僧堂が、一見そのような前提に成り立っているようにみえて、実はそのような宗教的意義とは無関係のところにいる可能性を提示した。

 

 このような視点は私のバイアスによって生まれてしまったものなのか。偏向はしているだろう。しかし、話を聞いている限り、僧堂関係者もあるべき僧堂運営について宗教的意義と研修機関的存在の狭間で苦悩しているところがあるようだ。

 

 まずはそこを定める必要があるだろう。
 そして、合理的配慮と多様性という視点から述べると、宗教的意義に振れるならば

僧堂の趣旨を問うー合理的配慮を達成するためにー - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

で述べたように多様なあり方・合理的配慮が可能である。研修機関的存在に振れるとしても、実務の研修は同じく多様なあり方で実践可能である。*6

 

 問題は、箔付け・権威付けのための(超えるべきものとしての)研修機関的存在である。これは、このブログで批難してきた問題の根源である。
 そして、僧堂関係者も対外的に口に出せないだけで、これこそが僧堂の実体・本質なのだと意識的もしくは無意識的に認識しているのではないか。

 

 宗教的意義や実務的研修に重きを置くのであれば、対話ができる。これは今まで述べたとおりである。
 もし、箔付け・権威付けの僧堂を肯定するならば。私や、私のような立場の人間は闘わざるを得なくなる。また、真っ当な宗教者も闘うべきであろう。
 対話か闘争か。
 僧堂関係者の誠実な応答を期待したい。

*1:ただし、せっかくやるのであれば宗教的意義を体感したいとは思っている。

*2:そもそもが感情的になって何1つの具体的な話ができない時点で相談にもなっていない。

*3:

宗教者である以前にこのような対話は大学で当然に身に着けているべき技術でもある。なお、このOBは自分が同志社法学部卒であるとこを声高に仰っしゃられていた。

*4:

橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006) 142

*5:全く反吐が出る。

*6:私は上記で箔付け・権威付けの機関と述べたが、もちろんこれが間違っていることを望む。宗教的であれ研修的であれ、対話可能な僧堂であることを切に願う。

仏教が前提とするフィクションとは

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

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ztos.hatenablog.com

 ここまで、禅について私が考えていることを綴ってきたが、文章が複雑になるのを避けるために、本来語るべき前提をとばしてしまっていた。つまりは、仏教自体、更には宗教とは何か、ということについてである。

 

仏教についての私の理解

 仏教は「動物が生命循環している」*1というある種のフィクション*2である輪廻*3を前提している。そして、その輪廻から抜け出す(解脱)ためにゴータマ・シッダルダが試行錯誤し、覚りを開き、その結果解脱した。
 その後、同じように覚りを開いて輪廻から解脱したいと思う者が、ゴータマ・シッダルダを模倣した。その際、ゴータマ・シッダルダが試行錯誤した様々な行為のどの部分に着目するかで分技していき、禅宗では上記したような後世で認知行動療法的と言われる部分に着目し、その実践を目指している。
 というのが私のとても大雑把な理解である。これまた噴飯ものかもしれないが。

 

 したがって、僧堂は「禅の実践をする場」と上述したが、正確には「輪廻というフィクションを共有し、それを前提に、輪廻から抜け出したいという意思を持って行動する。そして、その方法として禅の実践を行う」のが僧堂という場であるというのが私の理解である。

宗教の意義 

 なお、ここで記述した「フィクション(=自明でないこと)の共有」はとても重要なことだと考える。

 

 またもや噴飯話を繰り返すことになりそうだが、ある社会学者に宗教について話をした際、デュルケームの『自殺論』という社会学の古典を紹介された。これに書かれているアノミー論が宗教の意義を説明しているとのことだった。

 アノミー論について私の雑な理解を記述すると以下のようになる。

 

 まず、この論は「生活が楽になる*4」ような、または「一国の繁栄を急激にもたらす*5」ような喜ばしい変革が起きた場合でも自殺率があがっていることに着目したものである。

 

 なぜ、喜ばしい変革でも自殺率があがってしまうのか。

 その理由は生物が持つ“欲求”にあるという。
 「どんな生物も、その欲求が十分に手段と適合していないかぎり幸福ではありえないし、生きることもできない*6しかし、「人間の肉体的構造のなかにも、心理的構造のなかにも、このような欲求傾向に限界を画してくれるものはなにもない*7その結果“欲求”は際限なく広がるが、最終的にはそれを充足する手段の限界を迎えてしまう。

人は行動し、運動し、努力することにいかなる快感を味わおうとも、そのうえになお、自分の努力が無意味でないこと、また自分がその歩みのなかで前進していることを感じていなければならない。ところが、いかなる目的にも向かっていないときには、またそれと同じことだが、目指す目的が果てしのない彼方にあるときには、人は前進していないも同然である。(中略)それゆえ、かりに手のとどかない目的を追い求めるならば、人は果てるところのない不満の状態をもって罰せられる。*8

 であるからして、「そうならないためには、なによりもまずこれらの情念に限界が画されなければならない」*9というのである。

 

 そして、社会、道徳、価値観なるものはその限界を定める。

 この圧力のもとでは、各個人は、自分の生活領域のうちにあって、自分自身の欲望のおよびうる限界点をそれとなく感じとり、それ以上の欲望をいだかないものである。*10

 だからこそ、その規範が崩壊すると“欲求”が際限なく広がり、その帰結として自殺につながるのである。

 ただし、社会が混乱におちいったときは、たとえそれが苦難にみちた危機から生じた混乱であろうと、幸運な、しかし急激な変化をともなう危機から生じた混乱であろうと、しばし社会はこの活動〔個人にたいする規制〕を行使することができなくなる。そして、さきに確認したあの自殺曲線の急上昇は、じつにここから起こってくる。*11

 

 私は、ここに宗教の意義があると理解した。
 そのようなアノミー*12の状態への対抗手段の1つとして、「自明でないことがらを前提としてふるまう」*13宗教は真価を発揮するのではないか。自明でないことがら=フィクションは、それ自体の是非を無視して、規範的権力を有する。それを実行する集団の規模が多ければ多いほど、その権力性、正当性は上昇する。その規範的権力こそが、“欲求”へのストッパーとなるのである。

 以上のことから、「フィクション(=自明でないこと)の共有」は重要なのである。
 


私が確認している禅宗の実態


 宗教の意義はフィクションの共有にある。
 そして、仏教におけるフィクションは輪廻であり、目的は輪廻からの解脱である。
 禅宗はその目的を達成する手段として前記事で記述したような認知行動療法的手法をとる。
 僧堂はその手段の実践をする場であり、当然輪廻からの解脱を目的としており、当然輪廻というフィクションを前提としていることになる。

 

 しかし、寺の実務や僧堂、禅宗関係者などをみると、どうにもそのようなフィクションを共有しているようには思えない。これでは、自分がそのフィクションを前提に行動してみても、ただの脳内妄想にしかならない。
 
 では、僧堂が、禅宗が前提としているフィクションとは何なんだろうか。
 そこで禅宗関係者に「禅宗における自明でないが前提に振る舞っている事柄は何か」を尋ねてまわっているのだが、今の所、まともな回答は得られていない
 雲水やOBの熟練された宗教観が高度すぎて私が理解できない、という状態であれば良いのだが、残念ながらそういうわけではない。彼らの殆どが、そのような宗教的熟練と無縁なのである。宗教の意義など微塵も考えていなく、当然フィクションの共有などしていない。
 極稀に宗教的熟練を感じるOBもいるのだが、そのような者は初めから宗教的関心を持っており、独学での知識が充実している。僧堂において、獲得した概念ではないように思う*14

 ここから推測するに、もしかすると、僧堂とは宗教的意義を持たない機関なのではないか。

 

 このことについては次の記事で考察する。

ztos.hatenablog.com

*1:橋爪大三郎『世界がわかる 宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006) 143

*2:=自明でないこと。「宗教とは自明でないことを前提に振る舞うことである」橋爪 24頁

*3:「仏教は輪廻を前提にしており、輪廻を信じなければ仏教は理解できないのですが、日本人は信じていません。輪廻を信じるなら、祖先崇拝はありえません。仏壇”先祖の位牌を祀る”のは、仏教でなく道教のやり方です」橋爪 142頁

*4:「もしも生活が苦しくなるために自殺が増大するならば、生活が楽になるときには、自殺が減少するはずであろう。ところが、いちばんの必需品である食糧の値が騰貴するとき、一般に自殺は変わらないが、反対にその値が下落するときには、自殺の平均以下への減少はみられない」デュルケーム著 宮島喬訳『自殺論』(中公文庫、1985)294頁

*5:「貧困のいささかの増加もなしに、自殺の増加が起こる。したがって、一国の繁栄を急激にもたらすような歓迎すべき危機でさえ、経済的破綻とまったく変わりのない影響を自殺におよぼすことになる」デュルケーム 295頁

*6:デュルケーム 301頁

*7:デュルケーム 301頁

*8:デュルケーム 303頁

*9:デュルケーム 304頁

*10:デュルケーム 306頁

*11:デュルケーム 310頁

*12:無規範状態。

*13:橋爪 24頁

*14:具体的には

合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

で紹介した2人だが、記述したとおり、1人は僧堂にそのような宗教的価値はなかったと話した。もう1人は僧堂に意義を見出してはいたが、既に獲得していた宗教的知識を僧堂で育むことに(本人的に)成功したという風に見受けられた。そして、その他大勢の“至っていない”雲水を蔑む発言をしていることから、彼の目線に立ったとしても、僧堂が完璧な宗教的習熟の場とは思えない。また、この御仁が偶々そうだっただけだとは思うが、知識を有するがうえに知識マウントをとるムーブを多くされていた。この知識マウンティングに対し当時は自分がダメなやつなんだと自罰的になっていたが、説明もせずにただテクニカルタームをマウント的に持ち出す行為は対話とならない、批判されるべき話法であった。私自身もそれをしないように努力しないとならないし、これを読んで対話しようと思ってくれたあなたにもこのことをお願いしたい。

僧堂の趣旨を問うー合理的配慮を達成するためにー

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

(↑トップ記事)

 

ztos.hatenablog.com

 上の記事では、現状の制度では対応できない特性を持った者への合理的配慮を検討するにあたって、僧堂制度で何を達成しようとしているのか=僧堂の趣旨が重要になることを記述した。なぜならば、僧堂の趣旨がわかれば、それぞれの特性に合わせた趣旨の達成の仕方を模索することが可能になるからである。

 そのような理由から、僧堂関係者には、「僧堂は(あるいはもっと細分化して、僧堂で行われている○○という行為は)こういう趣旨で行っているんだよ」という答えを求めている。しかし、今の所、このブログを読んだ関係者からそのような回答はなかなか得られていない。どうしても、自分が関わっているものが批判されている! と短絡的に受け止め、自己防衛的な反応をされてしまう。

 

 そういった状況なので、一度こちらから例を出してみることにした。つまり、私が考えている僧堂の趣旨はこのようなもので、仮にこの趣旨であるならばこういった代替が可能なのではないか、というものである。

 私は宗教については無学であり、おそらくツッコミどころが満載な話になると思う。しかし、「違う! こういった趣旨なんだ」と教えていただければ、上記のように「なるほど、そういった趣旨なんですね。では、○○といった特性でも、その趣旨を達成できる方法を一緒に考えましょう」と対話ができる。本記事はそのような目的で記述する。

 

私が考える僧堂の趣旨

 僧堂は禅の実践をする場*1である。

 禅の実践とは何か。端的に私の考えをいうと、それは純粋経験の体現であり、それはニアリーイコールで心理学でいうマインドフルネスである。

 ……もう、この時点で多少でも学がある人は、噴飯ないし呆れ返っていることだと思う。私もそのような自覚はあるとわかってもらったうえで、生暖かい目で続きを読んで貰えると幸いである。

純粋経験

 純粋経験と禅というと、哲学者の西田幾多郎である。

 西田は、若い頃に禅に傾倒し、その後処女作『善の研究』で「純粋経験」について論じている。*2

 私が雑に理解*3する純粋経験」とは、何らかの行為や対象物について解釈や判断をする以前の状態を指しているものである

 『善の研究』冒頭では「まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである」*4「例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである」*5とある。

 藤田正勝『西田幾多郎――生きることと哲学』によるとこれについて以下のように書かれている。

判断とは、真偽が問題になる事柄についてある定まった考えを下すことであり、「この花は赤い」とか、「この水は冷たい」といった命題の形で言い表される。「純粋経験」はそのような判断がなされる以前の状態であるということが言われているのである。*6

 西田は直接禅について論じているわけではない*7が、このような純粋経験は禅の目的とするものを言語化したものであると考える。

 つまり、判断や解釈をする以前の状態を体現する。禅で重要とされる作務、読経、座禅などはその実践といえる。そして、その実践は次に紹介するマインドフルネスと相似している。

マインドフルネス

 私は純粋経験をニアリーイコールでマインドフルネスと上述した。

 まず、マインドフルネスとは何か。

 マインドフルネスは第三世代の認知行動療法と言われる。*8

 認知行動療法は、「パブロフの犬」に代表されるような古典的条件づけなどをルーツとし、それにより「不適応的な行動や認知の直接的な変容をめざす」*9ものであった。

 しかし、マインドフルネスをはじめとする第三世代の認知行動療法は「不適応的な認知や感情自体を直接的に変えるのではなく、それらの体験とのつき合い方に焦点をあてる」*10ものである。

 日本マインドフルネス学会によれば

 本学会では、マインドフルネスを、“今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること” と定義する。

 なお、“観る”は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、さらにそれらによって生じる心の働きをも観る、という意味である。*11

とある。

 その他、「意図的に、今この瞬間に、価値判断することなく注意を向けること」*12などとも定義される。

 つまり、「評価せず」「とらわれのない状態」「価値判断することなく」、“今ここ”の体験に“注意を向ける”ことであり、それはすなわち、純粋経験の体現と言える。

 なお、マインドフルネスは元々仏教的発想からきているものであり、マインドフルネスという言葉自体、「仏教で重要な概念のSati(サティ)の英語訳」*13とのことである。

禅とのつながり

 マインドフルネスという心理学的概念が広まったのは、1980~90年代の話だが、仏教・禅ではこの実践を何千年何百年としていたことになる。

 私の受けた産業カウンセラーの講義で登壇していたある精神科医は「釈迦がやっていたのは、結局の所、今の科学でいう認知行動療法だった」と話していた。

 次の記事で記述するように、宗教はあるフィクションを共有することに意義があると考えると、現代科学概念を持ち込むのはナンセンスかもしれない。ただ、当時の苦しみから逃れる実践が、数千年後の現在でも、現代科学の観点から有効であるとして心理療法的実践が行われていることは、個人的に興味深く思う。

 

 修行というと何かきついもの、苦しいもの、厳しいものを想像すると思う。

 修行に限らず、旧来の体育会系の練習なんかもそうした価値観があっただろう。しかし、実際にはきついが為の練習ではなく、目的に沿った科学的根拠のあるトレーニングが効果を成す。

 修行も同じで、きついが為の修行ではなく、目的のための修行なのである。その目的は後世の言葉でいう「純粋経験」の体現であり、その実践は「マインドフルネス」というむしろ苦しみから逃れるものと相似するのである。

 だから、作務で大変な仕事量をこなしても、読経で大量の経を読んでも、座禅で長期間坐り続けても。そこに「純粋経験」の体現がなければ意味がない。ただ、つらい、苦しい、厳しい、だけである。

 作務で草を抜くことに心を向ける、読経で文字を追いながら声を出すことに心を向ける、座禅で今ここに心を向ける。これこそが意味のある行為*14であり、だからこそ、作務、読経、座禅を禅では大事にしているのだと私は考える。

私の考える僧堂の趣旨

 以上のように、私が考える僧堂の趣旨、または僧堂で行われる行為の趣旨、は純粋経験の体現であると考える。そして、それはマインドフルネス的実践に相似するものである。もちろん、ならばマインドフルネスを勉強して実践すればいいとなるので、仏教・禅の伝統的手法を用いて行うことになる。しかし、その本質は似通ったものである。

 逆にいうと、この純粋経験・マインドフルネス的なものから外れている伝統的手法は、本質でないと言える。

 日本の現代仏教全体がそうであるように、禅もその長い歴史の中で様々な価値観や他宗教の影響を受けてきたと思われる*15。このブログで批判してきたマッチョ主義的な部分もその類であると考える。

 本質はあくまで純粋経験の体現、今でいうマインドフルネス。それを伝統的手法で行うことにある。

この趣旨から考える合理的配慮*16

 私は僧堂内で行われていることについて細かく知っているわけではない。しかし、それぞれに相応の意味付けがあるのだろう。もちろん、意味付けがあろうとこのブログで指摘してきたような問題への回答にはならないのではあるが。ともかく、個々に意味付けがあり、それらは大きくは伝統的手法という言葉に回収されると思う。

 ここで問題とするのは、その手法が達成できない属性・特性を持つ人への合理的配慮である。

 私はここまでで本質は純粋経験の体現にあると繰り返し述べてきた。

 つまり、伝統的手法をそのまま遂行できなくとも、その本質を達成できれば良い(逆にいうと、伝統的手法を型どおりに遂行しても、本質が達成されないのであれば意味がない*17)。

 例えば、身体的に座禅ができない者であっても、その他の方法で純粋経験の体現を行うことは可能である。

 例えば、長期の共同生活ができない者であっても、直接的に純粋経験を体感する作業に本人が可能な範囲でスポット参加することは可能である。

 例えば、他人とのコミュニケーションが難しい者であっても、1人で純粋経験を体感する作業をしてもらうというのは可能である。

 例えば、外出が困難な者であっても、ZOOM等でやり取りをするなかで純粋経験を体感する作業をしてもらうというのは可能*18である。

 

 結局は、どのような特性の者であっても、この本質は達成が可能であると思う。当事者個人個人で様々な特性があるので、具体的に列挙していくのは難しいが、純粋経験の体現」をその人が“可能な範囲”の「伝統的手法で」行うことが解であると私は考える。

 もちろん、僧堂側の(人的、金銭的な)コストとの兼ね合いはあるので、そこらへんは当事者同士での話し合いとなるだろう。ただし、営利団体でないことや、住職資格という場合によってはその者の職と住居を同時に失わせるほどの重要な資格を差配する機関であることを考えると、営利団体以上に最大限の配慮が必要となると考える。

 

僧堂関係者の方々へ

 以上が、私の考える僧堂の趣旨、そしてその趣旨を達成しつつ一定の特性を持つ者への合理的配慮の提案である。

 さて、関係者の方々、どのように感じたであろうか。

 「何いってんだこいつは」「僧堂というものを全く理解できていない」「禅をなめてるのか」

 そのように感じて頂ければ、自らの無知をさらけ出してまで、この記事を書いた意義があったと思う。

 ぜひ、そう感じられたついでに「正しい僧堂の趣旨というのはだな~」と語ってもらいたい。

 そうすることで、初めて合理的配慮に向けた対話が成立すると考える。

 関係者の方々、是非にお願い致します。

 

余談

 また、ここまで自分の考えをさらけ出したので、仏教、さらには宗教について私の考えを次回の記事で更に記述した。

 簡潔にいうと、宗教は自明でないこと(フィクション)を共有することに意義があり、仏教も輪廻という自明でないことを前提としている。本記事で僧堂の趣旨は禅の実践と書いたが、さらに詳しくいうと、「僧堂の趣旨は、輪廻というフィクションを共有し、それを克服するために、禅の実践をする」ということになる。

 またも噴飯ものになるかもしれませんが、読んでいただけると幸いです。

ztos.hatenablog.com

 

*1:この時点で現実と開きがある気もする。このブログを読んだ人に「あなたは僧堂に何を求めているの? 宗教的成熟? それとも、住職資格を得ること?」と問われたことがある。これはある意味とても示唆的な問いで、建前は宗教的成熟の場であると思うが、現実は自動車教習所のような免許を取る機関と化しているのではないか。

合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由で紹介したOGもそう発言しているし、私が出会った数十人の現役・OBで宗教的意義を求めて来ているものは(私が見た限り)ごくわずかであり、ほとんどが実家を継ぐための資格を得に来ている者であった。

*2:藤田正勝『西田幾多郎――生きることと哲学』(岩波新書、2007)26-28頁

*3:以下、あらゆるテクニカルタームについて、私の雑な理解を記述することになるが、生暖かい目で見ていただけると幸いである。

*4:西田幾多郎著(小坂国継 全注釈)『善の研究』(講談社学術文庫、2006)30頁

*5:西田 30頁

*6:藤田 53-54頁

*7:藤田 106-107頁

*8:一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセラー養成講座テキスト 産業カウンセリング 改訂第6版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2012)179頁

*9:日本カウンセリング協会 179頁

*10:日本カウンセリング協会 179頁

*11:日本マインドフルネス学会 設立趣旨 

https://mindfulness.jp.net/concept/ 2021年10月29日閲覧

*12:大山泰宏・小林真理子編『臨床心理面接特論Ⅰ ―心理支援に関する理論と実践―』(放送大学大学院教材、2019)214頁

*13:大山・小林 214頁

*14:だからといって、別に楽なわけではない。例えば、読経について、口馴染みだけでただ発声していると意外と余所事を考えられる。つらいのは時間の経過が遅いことだけだ。一方、マインドフルネス的に読んでみるととても消耗する。これはわかりやすい例だと思うので、実際にやってみてほしい。檀家さんの中には、暗記していることが偉いことという発想の方が結構多く、経本を手にするとガッカリみたいな反応をされることがある。実際は暗記して口馴染みで唱える方がよっぽど楽なのだけれど。もちろん、経本の文字を追うことに心を向けるというのはあくまで手段であり、純粋経験が達成されればそれ以外でも構わない。他の方法、例えばろうそくのゆらぎに心を向ける

*15:日本の現代仏教については後述するが、例えば先祖崇拝という道教の価値観がくっつき、結果として仏教の大前提である輪廻を否定することになっている。

*16:ちなみに合理的配慮とは、当事者双方が共にどうすればいいのか考えることがスタートである。したがって、この項目(またはこの記事自体)は話し合いの土台としての提言と受け取ってもらいたい。なお、私が接した関係者の中にはあたかも僧堂側が配慮してあげるかのような発言をする者がいた。合理的配慮とはマジョリティ(この場合は僧堂)側が配慮“してあげる”ものではない。上記のように、共に考えるものである。

*17:意味がないのだが、少なくとも私が接する関係者にはそのような人物が多い。型通りの遂行を自慢しつつ、本質の話はできない。ここで私が述べた本質が違うんだという意見はあると思うが、私と違った意見であろうとも本質について何かしらの意見を持っているはずだ。ここで言及しているような人物は、本質そのものについて何の発言もできないような者である。

*18:可能……なのかなとちょっと逡巡するところではある。なぜなら場・空間というのは重要な要素であると考えるからである。ただ、オンラインでマインドフルネスカウンセリングが実施されていることや、同じくオンラインでの法要が行われていることを考えると可能であるかと思う。

【記録】ある老師(僧堂主宰)のリアクション

「ブログにある意見を、当道場で受け入れるのは難しい」

 

 これは、ある僧堂の老師が発言したことである。正確には、仲介人が老師のメッセージとして伝えてきたもの。

 この発言に対する直接の批判は、「これだけ根拠立てて、これだけ多くの意見を書いているにも関わらず、何の意見も反論もなしに、受け入れるのは難しい、とはどういう了見か」に尽きる。

 ただし、言葉通りに受け取るなら、だ。

 この老師のメッセージは、改変、または、とても端折ってこちらに伝わっている可能性がある。

 

注意書き

 なお、対話のチャンネルはまだかろうじて閉じていないと考えるので、今後のコミュニケーションのことも考え、僧堂・老師については匿名とする。

 一方、僧堂という団体を主宰する以上、その者のこのような反応は記録として非常に有用なものであるとも考える。

 もし、このままの状態で対話が閉ざされてしまった場合は、この件について再度考えたい。

 

経緯

 これにはまず、経緯を説明する必要がある。

 まず、ある僧侶(以下H氏とする)に対し、件の老師に「僧堂に関する相談」という文書を渡してほしいとお願いしていた。

 その文書は「私の精神的な障害を前提に、それでも無理なく僧堂の趣旨を達するにはどうすればいいのか一緒に考えてもらえないか*1*2ということをメインの趣旨としている。一方で、そのような事情がなくても私は僧堂自体に懸念があり、それはこのようなものです、と、このブログを添付資料としてつけた。

 そして、対面での返答を希望し*3、それが難しいならまとまった文書*4での回答をお願いした。ただし、この際、私が「ペライチでもいいので」という軽い言い方をしてしまったために、その意図はうまく伝わらなかったのかもしれない。

 

老師の意見

 回答はLineで、前述の通りH氏のメッセージにまぎれて返ってきた。

 老師の意見であろうところを引用すると以下の通りである。

先日預かりました資料、○○僧堂の老師さんに見て頂きました。*5
結論から言いますと、ブログにある意見を、当道場で受け入れるのは難しい、との事です。
私たちでどうにか出来るレベルを超えているので、禅宗臨済宗全体で考えないといけない事かと思います。長い歴史の中で、社会に合わせ変わってきている部分もあるけれども、急激に改変するのは難しいでしょう。

 このあとはH氏の個人的なメッセージが続く。したがって、老師の意見は下2行のみであると考える。

 

ここから言えること

 ここから言えることは、「この老師」「ブログの意見は確認した」にも関わらず「何の反論も理屈も立てられず」「しかし、受け入れることは拒否した」ということである。

 また、私はこれに対する返事として、「受け入れることを拒否する」に至る具体的な話を教えてほしいとH氏に伝えた。それでもなお、追加説明が成されていない。このことはなおさら「何の反論も理屈も立てられず」「しかし、受け入れることは拒否した」ことを強調する状況となっている。*6

 

 他のツッコミどころとしては、

・「禅宗臨済宗全体で考えないといけない事」とのことだが、そのためにはまず当事者である「私たち」の対話が「全体で考え」るための第一歩であろう。

・「受け入れるのは難しい」「急激に改変するのは難しい」とのこと。しかし、ブログは問題提起はしているけれども、基本的に提言のようなものはしていない。何かを具体的に変えろと要求しているわけではない。もちろん、対話を通じて何かしら良い方向に変わっていくといいとは思っている。ただ、「急激に改変」を要求している文章ではない。よって、その回答そのものが的外れである。私自身そのような要求をするレベルに至れていないので、まずは対話を求めている。

・「ブログにある意見」というが、そもそも前述の通り、ブログは添付資料であって、「私の精神的な障害を前提に、それでも無理なく僧堂の趣旨を達するにはどうすればいいのか一緒に考えてもらえないか」という趣旨の文書がメインである。おそらく、ブログの内容が僧堂で長年サバイブできてしまった人にとってはショッキングだったことから、そっちに反応してしまったのだろう。*7ここでも私のお願いと老師の回答がすれ違ってしまっている。直接やり取りしていないこともあり、勿体ないディスコミュニケーションになってしまっている。

 

老師の真意次第

 さて、この老師のメッセージに対し、以上のような問題点を指摘した。しかし、このメッセージはあくまで、H氏による代弁であり、どこまでが老師の正確な意見であるかは疑問がある。

 話が大分端折られている可能性は高いし、H氏個人の考えが反映されている可能性もある。

 つまり、ここまでこの発言の問題点をあげてきたが、老師の真意次第ではまるっきりひっくり返る話である。

 

 そのようなことから、直接の対話をお願いしたが、それ以前の段階で、H氏とのコミュニケーション不全に陥ってしまった。

 「老師が、自身のメッセージがどういう文面で伝わったか把握していて」その上で「直接の対話なり追加説明なりが必要だという話が老師に伝わっていた場合」それでもなお無視を決め込むという態度は、上記のような批判から逃れられないだろう。しかし、H氏とのやり取りから感じ取るに、その可能性は低いのではないかとは感じている。

 

老師へのお願い

 もし、この記事を見たのであれば、リアクションがほしい。

 まず、当初のお願いの通り、相談に乗っていただけるのであれば個人的にはありがたいことこの上ない。

 一方で、H氏から送られてきたメッセージが老師の本意である場合。つまり、ブログに対して意見があるのであれば、その具体的な中身を提示してもらいたい

 もし、このブログが前提としている僧堂の実態が間違っているのであれば、それは将来的に僧堂に行くことを考えているこちらにとってもうれしいことである。前提はその通りであるが○○という理屈でこのブログで懸念しているようなことは起こらない、ということでも同じくこちらにとってうれしいことである。

 もしくは、○○という理由があるから△△という行為をやめることはできない、ということも考えられる。既にこのブログで言及しているように、そのような宗教的理由があろうとも、いじめや暴力被害、精神的後遺症などの懸念があることへの返答にはならない。しかし、○○という理由=その行為の趣旨がわかれば、ではその趣旨を達成しつつ懸念するようなリスクを減らす方法はないか、と建設的な対話が可能になる。

 

 このように決して敵対したいわけではなく、対話を求めている。

 上記であげたようなもの以外の意見もあるかもしれない。しかし、どのようなものであっても、こちらにとって僧堂に対する解像度をあげる有用な話になる。

 これは老師の側も同じであると思う。ブログという文字だけでは伝わらないことも多い。直接、このような意見を持つ私という人間とコミュニケーションをとることによって、自分が主宰するものに対し異なる意見を持つ者への解像度はあがるであろう。

 これは主宰する者の責務でもあると思うまったく見ず知らずの場合はともかく、あなたはもうこのブログを読んでしまい、そのことはこちらに伝わっている*8。そして、そのことはこの記事を通じて第三者に発信されている。このような状況である以上、知らないふりをして僧堂主宰を続けることは許されないと考える。

 

 私自身も体調などの条件が整えば、こちらからアポイントメント*9を取りたいと考えている。

 

余談

 ちなみに、このH氏とのやり取りも中々ユニークなものであった。ブログを読んだことから、徐々に態度を硬化させ、権威主義を振りかざすようになっていく様は、ある意味僧堂に10数年いただけあると思わせるものがあった。

 この人物とのやり取りもいずれ記録として記事にまとめたいと考えている。

*1:つまり、合理的配慮。合理的配慮のスタートは、どうすれば(障害のある中)目的を達成できるのかと前向きに当事者同士が考えるところにある。

*2:本ブログの「合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由」も参照。同じような意見を述べている。

*3:なにせ「一緒に考えてほしい」が趣旨である。この形式が1番スムーズであろう。

*4:なにせ「一緒に考えてほしい」が趣旨である。

*5:特定を防止するために、少しだけこちらで文言を変更した。

*6:ただし、H氏が老師にそのことを伝えていない可能性があり、その場合は事情が変わってくる。

*7:後述するように、この反応が老師のものか、H氏のものかはわからない。ただ、少なくともH氏はそのようなショックを受けていることは、やり取りを交わす中で伝わってきた。

*8:H氏が嘘をついていなければ。

*9:老師と対面するにはそれ相応の手続きがあるという。師匠を通じて、金銭を渡し、アポイントメントを取る。事を荒げたくはないので、なるべくこれに則った手続きをとりたいとは思う。しかし、とても個人的な事情で難しいかもしれない。場合によっては、正面から個人的にアプローチをとるかもしれない。老師だなんだといっても所詮人は人なのである。私は別件で肩書がつくような人物に直接アプローチをとることが何度かあったが、そのような人物ほど意見は違えど応じてくれる傾向にあった。逆に中途半端な肩書の人間ほど逃げ回る印象を受けた。『偉い人ほどよく逃げる』という本が話題になっているくらいだし、その時の私は偶々運が良かっただけなのかもしれないが。話が逸れたが、その際は肩書に相応する人間性を示してほしいと願う。

想定問答集①「つらいことから逃れたいだけじゃないか?」「警策で叩くことも暴力と否定するのか?」

 ここでは、想定される問答について記述していく。

 実際に言われたセリフについては、注釈でその人物の立場や年齢を記述する。

 (追記)今後のコミュニケーションに影響するため、上記のような注釈は削除した。また、実際に言われたセリフであっても、あくまで私というフィルターを通したものであり、その人物の意図した意味合いになっていない可能性もある。

 あくまで「想定問答」として読んで頂ければ幸いである。

 

 

「グダグダ言っているが、つらいことから逃れたいだけではないか?」

→もちろん、そのとおりであるし、つらいことをしなくていい社会が健全な社会であると考える。「つらいことから“逃げている”」という言葉は、呪いの言葉だ。

 「俺たちは大変なのに、あいつは逃れてる」ではなく、「俺たちもあいつのように逃れさせろ」が正しい主張と考える。皆で不幸になろう教から脱するべきである。

 

 また、「つらい」という言葉には様々な意味が内包される。

 上記した「つらい」や僧堂関係者が言う「つらい」は、つらい経験のための「つらい」*1だったり、逃げずに耐えたその事自体が素晴らしいという意味を持つ。しかし、それは上記したように呪いの言葉であるし、マッチョ主義の維持・継承にほかならない。また、「つらい=理不尽 に耐えること」を賛美する文脈では、結果、理不尽に正しく抗議することができなくなり、為政者や立場が上の存在に利する言葉となる。

 

 一方で「何かをなすために苦労する」ことも「つらい」と表現することがある。こちらの「つらい」は場合によって必要なことであるかもしれない。受験勉強や資格試験、スポーツアスリートなどもそうであろうか。何かの目標のために「つらい」けど頑張る。

 ここで課されていることは、勉強なり練習なり、自分に負荷がかかるものである。ただし、前者の「つらい」と違い、他者から不当に理不尽に精神的に追い詰められるようなものではない*2あくまで、目標のために自ら負荷を課しているということである。これは人から強制されたり、ましてや、やらなかったからと“逃げている”などと言われるものであってはならない。例えば、行為としては同じ「練習」であっても、それが「この練習に耐えきって一人前」「できないやつは甘えてる」のように村社会に認められるための踏み絵となっているようでは前者の「つらい」と同じであり批判されるべきものである。

 このブログを書くことだって何なら「つらい」。それなりに労力がかかるし、書いている内容も感情が負の方向に揺り動かされるものなので、実際これを書き始めて半年重いうつ状態に陥った*3。そのような負荷のかかる「つらい」ことではあるが、自分の意見を人に伝えるための前向きな行動であるし、何より自分が成そうとすることを成すために自らの意欲でやっている。

 

 僧堂で行われていることも、一部は後者の「つらい」に入ることができるかもしれない。*4しかし、それは他人によるものであってはならないのである。

 

坐禅中に警策で叩くのも行為的には暴力だが、体罰を認めないということはこれすらもダメと言うつもりか」

→その発想はなかった。

 これは、都合よく定義を広げて告発を無力化する話法*5であると考える。

 

 このブログで私が指摘している「暴力」は、読んでもらえばわかるように、理不尽に、権力関係*6がある中、振るわれる有形力の行使を指している。だからこそ、体罰以外についても、それは「暴力(=有形力の行使)」でないにしろ、理不尽な指導として断罪しているのである。

 

 坐禅中に警策で叩く行為はどうだろうか。

 たしかに嫌がらせでわざと芯を外して痛がらせるなんて話は時々聞くし、その場合は暴力と取れるかもしれないが、基本的には、理不尽に、権力関係を振りかざしてはいないだろう。そういう型と受けとるのが普通であると思う。

 

 このブログをきちんと読んでくださった方には「いや、おまえ庭詰で志願者を引っ剥がす行為を型としての暴力と批判してたやんけ」*7と鋭い指摘をされるかもしれない。

 しかし、あれはまさに「暴力」そのものを演じているわけで、雲水側は暴力を学習してしまう=暴力の敷居が下がる危険があるし、志願者側はまさに低頭を強制されるという権力関係の中で「暴力」を受けている。

 坐禅中に警策で叩く行為でそのようなことが起こるだろうか。警策を振るう側がそれで別の場面において暴力行使の敷居が下がるとは思えないし、振るわれる側もそれで屈辱などは感じないだろう。もちろん文脈によっては暴力となる場合もある。嫌がらせの例などがそれにあたる。それはそれで断罪すべきであるが、上記のとおり、基本的にはこのブログで批判している「暴力」とはいえない。

 

 以上が、「坐禅中に警策で叩く行為は、このブログで批判している暴力ではない」という私の理屈である。が、そもそもこんなことを丁寧に論立てしないとわからないこと自体が論外であると感じる。

 いきなり批判されて防衛機制が働いたのだとは思うが、頼むからこのブログで書いていることに真正面から向き合ってほしい。

 

*1:

体罰を正当化する理屈とその問題点 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

*2:ただ、偏見かもしれないが、スポーツの世界ではこれが良しとされ、「精神が鍛えられる」などと言われたりする印象がある。精神を鍛えるがどのような意味を指すのか不明だが、少なくともそのような指導をしてしまう指導者をみるに精神的な成熟とは真逆の方向にあると思う。「理不尽に耐えられるようになる」ことを「精神が鍛えられる」と表現しているのなら、確かにそのやり方で効果は出るだろうが、「理不尽に耐えられる」ということは「理不尽に正しく抗議できない」ということであり、それは結果為政者に利する精神である。

*3:定期的にうつ期がくる病気を患っているので、それ自体はよくあることだが、そのうつ期に陥るきっかけの1つにこのブログ執筆があったと思う。

*4:僧堂本来の趣旨はそういうものであると願っている。その負荷に自分が耐えられるかという問題はあるが、少なくともそれを否定する気はない。だからこそ、合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-に書いたように僧堂の趣旨はなんであるか問うているのである。

*5:例えばAへの批判に対し、Aの是非を論ずるのではなく、Aを批判するならBやCもダメということになるがそれでは社会が成り立たなくなるではないか、などと反論すること。これは一見反論しているようで、勝手に批判対象を広げて、本来論ずるべきであるAへの評価を避けている。

*6:単に上下関係と言ってもいい。立場が同等でない、力の不均衡があることを指してこの言葉を使っている。

*7:

僧堂における体罰と理不尽な指導 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

(↑トップ記事)

 

 トップ記事で書いたように、僧堂は平均的な人間にとっても問題をはらんだ場であるが、年齢・身体・精神などの属性によって更に厳しい場となる。

 また、「僧堂における理不尽なルール」の連帯責任の項で述べたように、一定の属性の人間が足を引っ張る存在として可視化される問題もある。

ztos.hatenablog.com

 そして、「いじめや自死を生む僧堂の環境」の下部で述べたように、そのような属性を持つ人間とって、必要なものは合理的配慮と多様な代替である。

ztos.hatenablog.com

 以下、この問題について掘り下げていく。

 

合理的配慮と多様な代替が必要な理由

 端的に言うと「主制度ではうまくいかなくても、代替があれば本来の目的が達成できることがある。この代替が多様であればあるほど、より多くの人間がこぼれ落ちることなく目的を達成できる」ということである。

 これについては前掲「いじめや自死を生む僧堂の環境」で詳しく述べたので、参照していただけると幸いである。

 考える際、重要となるのは、如何な属性がうまくいきづらいのか、どのような代替であればうまくいくのか、そもそも何をもってうまくいくとするのか(=僧堂の趣旨)ということである。

 以下、これらについて記述していく。

問題となる属性と、それを問題視するのが適切か否か

 問題とされる属性について、トップ記事でも述べたが、私が聞いた例を挙げる。

 ・年齢、体力のなさ

 まず、年齢。「30歳までにこないと厳しいよ」とある現役雲水は言った。理由は、3時間の睡眠で耐えられる体力がないと僧堂ではやっていけないからだと言う。

 この3時間睡眠がまずおかしいというのは前掲記事「僧堂における理不尽なルール」で述べたとおり。

 3時間睡眠は論外として、高年齢=体力が衰えているから僧堂でやっていけないというのは適切なのだろうか。答えは基本的にNOであろう。体力が衰えているなら*1それに合わせたカリキュラムにすれば良いだけである。

 例外的なYESの場合とは、その趣旨と体力が密接に関わっている場合である。例えばプロスポーツ選手などは、当然体力の衰えがダイレクトに影響する。宗教でいえば、(詳しくはしらないが)千日回峰行などがそれに該当するのかもしれない。

 僧堂の場合はどうなのか。上記の例は、形式的な結果・成績が必要なものであるが、禅の実践はそのような形式的な結果を求めるものなのであろうか。僧堂の趣旨が問われる。

 ・腰痛など、身体によるもの

 また、あるOBは「こないだ入った1年目の雲水が腰痛になったから出てってもらった*2」と述べた。おそらく、腰痛によって座禅が困難になったことが原因だと思われる。

 ここでもやはり趣旨である。

 座禅という形式が絶対的に必要なのか。その場合、腰痛に限らず身体的な障害があると禅の実践は不可能ということになる。随分排他的な宗教である。

 ある大学の仏教講義を聴講した際、講師の方が「1に作務、2に読経、3に座禅」と講義されていた。これらの行為は、いわゆる純粋経験を体感することに共通項があるように思える。そう考えると、その趣旨・意義は行為の形式にはないのではないか。だとすればその身体に合わせて代替が可能なように思えるが、いかがだろうか。

 精神疾患

 最後に私の事例。私は、精神障害2級であり、労働や日常生活に制限がある。

 ここで詳しく病名などは明かさないが、定期的にうつ状態になる時期が来る病気で、現時点では完治はできないとされている。つまり、一生付き合っていくしかない自身の特性である。

 定期的にうつ状態になること。また、疲れる(医者はバッテリー切れと表現した)とうつ期に入りやすくなることを考えると長期間の集団生活は難しい*3

 これもまた趣旨が問われる。そのような長期間の集団生活は、絶対的に必要な形式であるのか。

 

僧堂の趣旨は言語化不可能?

 ここまで頻繁に僧堂の趣旨が問われると記述してきた。なぜなら、その趣旨が達成できれば既存の方法にとらわれる必要はないからである。趣旨がわかれば、障害となっている属性に合わせて、どのような方法ならそれが達成できるかを話し合えばいい。

 しかし、どうにもその趣旨がわからない。

 前述の私の障害について、あるOBに相談した。このような特性があるので、例えば通いにする、もしくは、1年ぶっ通しでなく細切れなスケジュールにすることによって問題を回避できないか、と問うた。これに対し、そのOBは「それはできない。我々は、長期間の集団生活によって趣旨が達せられると考えているからだ」と回答した。しかし、その趣旨は具体的になにかと訊くと、どうにもはっきりした回答が得られない。自分自身が趣旨を明確に答えられないのに、「長期間の集団生活」によってそれが達せられるとはどういうことなのだろう

 

 これは個人的推論であるが、禅宗の成り立ちが影響しているのではないか。

 橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』*4によると禅宗の特徴は「仏教の経典を無視すること、そして、戒律を無視すること」*5とし、以下のように紹介している。

 禅宗の開祖は、菩提達磨(Bodhidharma,ボーディダルマ)と言われています。(中略)そして、釈尊直伝の座禅法を伝承していると称していた。釈尊は、説法を多くの経典として残していますが、座禅法はパフォーマンスだから、テキストにならない。そして、成仏に大事なのは、経典もさることながら座禅修行であるというのです。それなら、経典を読んでいるひまに、釈尊直伝の座禅を習うべきだということになります。

 (中略)そして、釈尊の権威をたてに、戒律を無視することに決め、経典も自由に解釈しました。禅宗では、経典の「真意」を「超訳」的に解釈する、「問答」をよくやります。禅宗では「不立文字」といって、真理はテキストの表面的な意味を超えたところにあると考えます。*6

 単純に理解するに、文字よりも体験を重視するということなのかと思う。その行為の趣旨は実体験によって理解するべきであり、言語化は意味を成さない。

 これは、無学な私が勝手に解釈したことではあるが、実際に現役・OBの雲水と会話していて「まずはやってみろ」と議論を打ち切られることは多い

 

 なるほど、一理あるかもしれない。また、非言語化が宗教的意味を持つこともなんとなく理解できる。

 しかし、そのことが体のいい言い訳としてとても便利なことも事実である。すべての理不尽を「それによって趣旨が達せられる。しかし、それがなにかは言語化できない」と突っぱねることが可能なのである。

 上述した「まずはやってみろ」と議論を打ち切る行為がまさにこれにあたる。これを言う人物は様々にいたが、明らかに何もわかっていない人物が言語による反論に窮してこれを述べることが多々あった。自分はやっていると簡単にマウンティングがとれるし、相手は反論不能になる非常に便利な言葉である。*7

  しかし、同時に対話は成立しなくなる。当然、合理的配慮に向けての語り合うことはできないし、多様な代替など考えることもできなくなる。

 私はこのブログを「僧堂は、宗教的意義はさておいて、このような問題が起こりうるシステム上の不備がある。なので、宗教的意義ではなく問題が起こるシステムに目を向けて対話しよう」という姿勢で記述してきた。この話も同じで「非言語化に宗教的意味を見出すことは否定しないが、非言語化により対話が不能になる。なので、対話するにあたってそのような話法を使うのはやめよう」と私は主張する。

 僧堂の実情

 「僧堂の趣旨」は「僧堂で何の獲得を目指すか」とも言い換えられる。つまり、僧堂のOBは何かを獲得しているはずである。

 ここで私が出会った2人のOB・OGの発言を紹介したい。2人とも、在家出身で自らの意志で僧堂に入った人物であり、家の都合で僧堂に来る大多数の者*8と比べ、宗教に対する前提知識やモチベーションは段違いに高い。

 うち1人は「西田幾多郎などを読んで禅に関心を持って入ったけど、あの中(僧堂)にそんなものは欠片もなかった」「あれは運転免許とるための自動車教習所と同じようなもん」と語った。

 もう1人は十数年僧堂にいた人物で、僧堂をとても肯定的に評していた。一方で「実家が寺のやつで、至っている*9やつは殆どいないね。極稀にいるけど、殆どのやつは無関心」とも語った。そのような傲慢な語りが、より禅に近寄りがたくしているのではないかとも思うが、確かに現役雲水を見ているとその通りではある。

 しかし、ということは、ご自慢の僧堂システムは何の役にも立たないということではないか。少なくとも、宗教的に何かを会得するのは困難ということになる。殆どのものは、無関心、あるいは勘違い*10したまま僧堂を出ていく。もし「僧堂の趣旨」が何かしらの宗教的成熟にあるのであれば、現在の僧堂のあり方はうまく行っていないということになる。

 

臨済宗妙心寺派 僧堂のあり方を改めて考える

bunkajiho.co.jp

 最後に、このような記事を見つけたので触れたいと思う。

 僧堂のあり方について古参の修行者が意見交換を行ったとのことである。その中で、本記事にて扱ったような属性を持つ者への「配慮」についても議論したとある。

 私は禅宗について、ひどく保守のイメージを持っていたので、このような議題を扱うことに驚きがあった。そのような属性を持つ当事者の1人として、純粋にうれしく感じる。その上で、記事に記載されていること*11について、いくつか指摘したい。

 グループ討議では高齢者や心身に障がいがある人、トランスジェンダーの人に対する僧堂の配慮などについても話し合った。評席からは、受け入れは前提条件として、高齢者や障がいのある人について「僧堂に入る時点で報告をしてもらう必要がある」「生活の中で近しい人が判断をする」などの意見があがった。また、トランスジェンダーの人については、明確な答えに苦慮しつつ、「長期間の修行が難しい場合、安居会を利用する」「個人の事情を把握した上で、なるべく合わせた指導を行う」などが述べられた。*12

 以上が関連のある部分を抜粋したものである。

 まず、高齢者や障がいのある人の受け入れについて、「生活の中で近しい人が判断をする」とある。疾病性*13でなく事例性*14から判断するのは良いこと*15であるが、問題は受け入れない選択があるということである。この受け入れない選択がされた際、代替の手段がなければ、住職資格が得られないということになる。僧堂に入る人間の殆どは実家がお寺という出自である。そして、継がないと生まれ育った家が奪われる、いわば実家が担保にとられている状態となっている。そういった状態の中、望んでも住職資格が得られないというのは、特に高齢者や障がいのある人にとって酷な話ではないだろうか。

 一方で、トランスジェンダーの人について、(答えに苦慮しつつ)「長期間の修行が難しい場合、安居会を利用する」「個人の事情を把握した上で、なるべく合わせた指導を行う」と述べられたという。この2つのことは、トランスジェンダーの人にとどまらず、高齢者・障がい者にとっても重要なことである。おそらく、トランスジェンダーの人についての回答に苦慮した結果*16、その他の属性の人を含めた総論的な回答がここで出ただけだろうとは思うが、ぜひにすべてのマイノリティ属性を持つ人間に対してこのような姿勢で臨んでいただきたい。

 また、「12専門道場(僧堂)から長年修行を積んだ古参の修行者の評席12人が参加」とあるが、そもそも古参の修行者ということは僧堂という環境をサバイブできた人間ということである。全くの無意味とは思わないが、サバイブできた人間だけで有意義な意見交換はなかなか難しいのではと考える。彼らからみた我々が広い意味で異常であるように、我々からするとそのような人間は同じく広い意味での異常なのだ。学校をエンジョイできた人間が教師になることが多いため、適応できない生徒がスルーされるというのはよく言われる話であるが、それと同じ話なのである。

 

 しかしながら、前述したように、このようなテーマについて意見交換がされていることは喜ばしい。これは2019年の記事であるが、今どのような議論に発展しているのか。成熟した議論が行われていることを期待したい。

*1:そもそも年齢に限らず、体力というものは個人差が大きい。また、私のようなうつを抱えている人間や発達障害の人間は、同じことをしても一般的な人よりも疲れやすいという特性を持っている者も多い。

*2:追記。件のOBに本稿を見てもらったところ「出てってもらった」なんて言い方はしていないはずと指摘を受けた。「基本的に犯罪でもしない限りこっちから追い出すことはない」「腰痛の彼は自ら出ていき、その後腰痛でも可能な別の僧堂に行った」とのこと。他の件には冷静だったこのOBがこの件には憤慨を隠す様子がなかったところから、一定の信用がおける発言だと感じた。一方で、労働闘争の現場で頻繁に見られるように「積極的な追い出し」はなかったとしても腰痛により居づらくなる「消極的な追い出し」の可能性は指摘しておきたい。もちろん、この件についてどのようなプロセスがあったのかはわからない。「どうすればその状態で趣旨を達成できるかを一緒に考える」というプロセスが大切であり、そのようなプロセスがあった上で、結論として別の僧堂にスムーズに移ったのであれば一定の評価ができると考える。ただし、所属を変える負担を考えると、同じ僧堂で対応が最も望ましいとは思う。また、腰痛に対応できないということはその他の身体的ハンディにも対応できないということになるので、やはり、すべての僧堂で同じように受け入れ可能であることが望ましいと考える。

*3:長期間だとうつ期は必ず来ること。そして、他人といると疲れやすいことから、集団生活ではうつ状態が頻発すると予想されることから。

*4:橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006)

*5:橋爪 200頁

*6:橋爪 201-202頁

*7:例えば、話をブラック企業に置き換えるとこの話法の問題がわかりやすい。その働き方を批判した際に「やってもみずに言うな」と、それも使用者側から言われたらどうであろうか。「まずはやれ」「やらずに言うな」は告発を安易に無力化する話法なのである。

*8:私もその1人である。

*9:おそらく宗教、仏教、禅についての意と思われる。

*10:別記事でも書いたが、このOBは、体罰を自慢気に言う中堅雲水について「あぁ、5年目くらいがいいそうなことや」と反応した。しかし、5年も居てそういう勘違いが起こるなら、そのシステムには問題があると考えるのが普通だと思う。

*11:記事自体が短いので、実際にはより掘り下げて意見交換されている可能性には留意しなくてはならない。

*12:文化時報プレミアム 臨済宗妙心寺派 僧堂のあり方を改めて考える 

https://bunkajiho.co.jp/blog/?p=1602 2021年7月3日閲覧

*13:「「疾病性」とは疾病の有無や症状の程度に関することで、幻聴がある、統合失調症が疑われるなど専門家が判断する分野である。」一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセリング 産業カウンセラー養成講座テキストⅠ 改訂第7版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2017)337頁

*14:「「事例性(caseness)」とは、狭義には、本人の言動が以前の本人とくらべ、あるいは周囲の同じような立場の者とくらべ、どのくらい、どのように偏倚しているかを指す。」一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセリング 産業カウンセラー養成講座テキストⅡ 改訂第7版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2017)693頁

*15:一般に、会社などでは疾病性でなく事例性から考えるのが重要であるとされる。関係者は精神科医などの専門家ではないことや、病気そのものでなく実際に困っている事象を捉え解決する必要があることなどがその理由である。

*16:記事をみても、マイノリティ属性について語る上での知識が拙く感じる。また、私が直接話を聴いたある僧侶は「最近は精神障害者トランスジェンダーも増えてきているから、確かにその人達のことも考えていかないといけない」と語った。彼なりに、彼ができる範囲で、最大限理解をしようとしていることは実際に話して感じるところではあった。しかし、マイノリティ属性について「最近は増えてきたから」というのは、自身がそこらへんを気にしないで生きてこられたマジョリティの証であり、典型的な無理解の発言である。精神障害者トランスジェンダーは「増えてきた」のでなく、ずっと居た。居たうえで、無視され、踏まれ続けてきたのである。それがようやく少しずつ「声をあげられる土壌が育ってきた」ということなのである。マジョリティであることを恥じる必要はないが(そもそもマイノリティ当事者だって場面によってはマジョリティとなる)、マジョリティとしてどう振る舞うかは常に考える必要がある。

いじめや自死を生む僧堂の環境

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

(↑トップ記事)

 

ztos.hatenablog.com

 上記「僧堂における理不尽なルール」でも述べたように、僧堂ではほぼ24時間同じ空間、同じ面子、同じ小集団での共同生活になる。また、数少ない自由な外出機会も雲水であることが求められ、私服を着ただけで私的刑罰の対象になる。

 場を制限することに宗教的意味を見出しているのかも知れないが、実際にそのような環境はどのような問題が起こりうるのか。
 以下、考えていきたい。

 

 

ストレス発散の仕方が限られる

 まず、ストレス発散の仕方が限られる環境ではいじめが起きやすい

 トップ記事でも引用したが、荻上チキ『いじめを生む教室』*1には以下のように書かれている。

  学校の教室というのは、他人に時間を管理されている環境なので、自分好みのストレス発散がなかなかできません。一方でいじめというのは、「それなりにおもしろいゲーム」なので、そういう形でストレスが発露してしまうのです。

 しかし、いじめは、「なによりもおもしろいゲーム」ではありません。(中略)いじめという形でストレスを発散していた人が別の発散方法を手に入れると、いじめをしなくてもすむようになることがわかっています。問題は、学校では「クラスから離脱する」ことも、「ゲームやスマホなどを持ち込み、ストレス発散する」ことも禁じられていることです。*2

 しかし、僧堂は時間・空間がほぼほぼ管理されている環境である。そして、「ゲームやスマホ」のような同空間にいながらも気をそらすことのできるような娯楽はほとんどない

 当然、いじめが起こりやすい環境であると言える。

自己否定へ

 いじめが起きたとき、空間が限定されていることがより事態を深刻にする。

 複数の空間・居場所を持っている場合、別の場が救いとなるだろうし、いじめをおかしな行為だと認識できる。

 しかし、空間がそこ1つに限定されていると、今自分のいる環境を疑うことが難しい。例えその集団の論理が、市民社会の論理や自身の価値観と異なるものでも、その空間の同調圧力に屈してしまう。

 その中間集団=教室から逃げ出す、外の環境を知ることはなかなか叶わないため、今自分のいる、いじめが起こるような環境を疑うことが難しい。(中略)加害者が快楽や支配欲を満たしながら、「あいつは自分たちに従うべきだ」と信じていく。あるいは被害者が、「謝るから仲良くしてください」等と、理不尽な秩序にもかかわらず従っていこうとする構造が生まれ、それが閉鎖空間の中では「正義」だと誤認されていくのです。*3

 ハラスメントや性被害について、そのときはそれを問題だと思えなかったと被害者が語ることが多いが、自分がアクセスできる空間が限られていることが一因にあると思う。

消極的排除

 「異質なものを異質なままで受け入れることができるような雰囲気」がいじめ対策に望ましい*4とされるが、24時間同じ空間でそれが成し遂げられるか。
 私自身の経験では、同空間での異質なものには、積極的ないじめ等がなかったとしても、消極的排除が起こる。

 その時、場がそこしかなければ当然居場所がなくなったように感じ、自己否定につながっていく。

空間が限定されることで起こりうる問題

 まとめると、場が1つしかない環境で起こりうることは、ストレス発散の仕方が限られることによるいじめの増大。そして、外の環境から隔離されることによる認知の歪み、それにより生まれる自己否定感情である。

 特にその空間で「異質」なものにとって、それは起こりやすく、場合によっては自死につながる。

 複数の居場所があれば、自己否定に陥らず客観視できたり、別の場にエスケープすることにより自死を回避できる可能性が高くなる僧堂の環境は、それを制限するような環境なのである。

 

 

自由刑=「移動の自由の制限」の不平等さ

 最後に蛇足になるが、「異質」の話が出たので、一度持論を述べたい。

 日本での懲役や禁錮等にあたる自由刑は、「移動の自由の制限」である。しかし、実情は本記事で問題としてきた「集団から離脱する自由」の制限である。

 となると、同じ量刑であっても、受刑者によってその重さは違うのではないか。適応できる人間と適応できない人間。例えば、暴力団等の集団でサバイブできるような人間にとっては集団での生活はそこまで苦にならないかもしれない。しかし、「異質」とされやすい人間にとって自由刑は極刑であり、再社会化をより難しくしてしまうものなのではないか。

 

 そして、この自由刑は一般的な日本人は等しく経験があるものである。そう、学校である。

 学校は時間が限定されている自由刑である。朝から夕方もしくは晩まで、同じ集団から離脱することが許されない。そこに適応できる人間はいいが、適応できない人間は落伍者としてラベリングされ、その後の人生においてもそのラベリングやそれによる自己否定は尾を引く。そこから抜け出せるかはその人個人によって変わってくるだろうが、学校という画一的な制度のせいで、人生がより困難になっていく

多様な代替、受け皿が必要

 さて、これは別に刑事政策や教育について考察するブログではないので僧堂に話をつなげる。

 僧堂は適応できる人間にとっては、何かを獲得できる場になるかもしれない。しかし、「異質」な適応できない人間にとっては何かを獲得する以前の段階で躓いてしまう

 

 私個人の話になるが、私は小中と不登校、つまり適応できない人間であった。毎日同じ場所、同じ空間で過ごすのが苦痛で、また、周りに複数の人間がいるとたとえ良好な人間関係であっても疲れてしまう。

 しかし、単位制高校、そして大学という集団からの離脱が自由にできる空間では、人並みに過ごすことができ、本来の目的である「教育」を一定水準で享受できたと思う。*5

 つまり、主制度ではうまくいかなくても、代替があれば本来の目的が達成できることがある。この代替が多様であればあるほど、より多くの人間がこぼれ落ちることなく目的を達成できる

 

 僧堂も同じ話であると思う。

 

 多様な代替、受け皿があれば、1つの制度に適応できない人間にも、本来の目的が達せられるようになる。

 必要なのは、合理的配慮、そして多様な代替なのである。

 

 この点については、次の記事にて更に述べる。

ztos.hatenablog.com

 

 

*1:荻上チキ『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書、2018)

*2:荻上 94頁

*3:荻上 102頁

*4:荻上 107頁

*5:成人してから判明したことだが、定期的にうつ状態になる病気であった。なので、調子のいい時は問題なく通えるのだが、うつ期が来るとそれが困難になる。通常のうつ病と違い、現状完治する術がないので、この特性とうまく付き合っていくしかない。その点、単位制高校や大学では自己裁量で調子の良い時悪い時の使い分けができたのでうまくいったのだと思う。