体罰を正当化する理屈とその問題点
いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-
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僧堂における体罰と理不尽な指導
上の記事にて、僧堂では体罰・理不尽な指導が横行していて、それにはどのような悪影響があるのかについて記述した。
しかし、当事者に話を聞くと、これらの体罰・理不尽な指導を正当化できる理屈があるらしい。
以下、彼らの言い分と私の見解を記述する。
つらい経験をさせてやるために殴るんや
このような体罰について、複数の雲水*1からそれを正当化する同じ理屈を聞いた*2。
その理屈とは端的にいうと「つらい経験をしていないとつらい人の気持ちがわからない。だから、先輩がつらい経験をさせてあげるために殴るのだ」というものである。
当時現役3年目の雲水の言葉が特に印象に残っているので紹介する。
「お寺とはどういう場所や? 人生の最後を飾る重要な場所やろ? そんな場所やから、深刻な相談をしにくる檀家も多い。例えば、明日にでも死のうと思っている人が相談にきたとしてや。そんな人を前にして、つらい経験してないやつが何を言える? やから、そのつらい経験をさせてやるために俺らは殴るんや」
中々に衝撃的な言葉であった。
前段は、お寺をいわゆる“葬式仏教”の場としてしか見てなく、素人目にもどうなんだろうと思うが置いておく*3。
後段の、希死念慮を持っている人の相談を受けるためには自らがつらい経験をしている必要がある、という点について、以下のような問題があると考える。
希死念慮を自分がなんとかできると思うことの傲慢さ
まず、大原則として、希死念慮を持っている人に対して、安易に自分がなんとかできると思うのは大変危険である。
私は産業カウンセラーの資格を持っており、一応取得に際し100時間以上の面接実習を受けている。しかし、それでも希死念慮を持つ人については自分1人でなんとかできると思ってはならず、適切な専門機関へのリファー*4が重要と教わる。それほどに希死念慮を持つ人への対応は難しい。
もちろん、門前払いというわけではなく、キチンと話は聞く。だが、そこに「つらい経験」とやらは意味を成さない。件の雲水が実際に相談された時どうするつもりなのかは知らないが、このような相談の場合、色々と口を出すことは逆効果になる。
(自殺について相談された場合)話の聴き方としては、本人が口にすることを黙って聴いていればよい。自殺を思いとどまらせたい一心で、いろいろ口を出すことは逆効果である。一緒に同じ時間を過ごすことがもっとも重要で、こうした態度は一般に「寄り添う」と表現される。こうした話の聴き方をしている限り、話を聴いている間に自殺行動が起こることはまれである。話をすることによって、相談者の気持ちも落ち着いてくる。*6
あれこれとアドバイスをするのでなく、相談者の口にすることを黙って聴き、同じ時間を過ごすことが必要となる。
そして、相談者を落ち着かせ、専門家につなぐことが重要なのである。
(自殺について相談された場合の対応について)第2は、抱え込まないで、できるだけ早く専門家に繋ぐことである。1人で何回も同じ話を聴き続けることは避ける。死にたいと思っている気持ちを本人の意思に反して第三者に伝えることは控えなければならないが、専門家に話をすることの必要性については相談者を説得することが必要である。それまでの過程で、相談者が自分は受け止めてもらえたと感じていれば、説得は可能である。*7
相談を受ける際、必要なのは“つらい経験”などではなく、知識と技術
また、このようなリファー案件でない相談、例えば日常のちょっとした不安についての相談だとしても、この「つらい経験」の理屈には問題がある。
相談者の「つらい」ことと、雲水の「つらい経験」は別物だからである。
産業カウンセラーが学ぶロジャーズの来談者中心療法で、重要視されることの1つに、“共感的理解”がある。
これは相談者の話す内容、感じ方等をあたかも自分自身のように感じ取ることであるが、重要なのはカウンセラー自身の経験を相手のそれであるかのごとく思い誤らないことと言われる。
ロジャーズは、共感的理解について、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取り、しかもこの「あたかも……のように」という性格を失わないことであると説いた。その世界はあくまでもクライエントのものであってカウンセラー自身のものではない。言い換えれば、カウンセラー自身の経験を相手のそれであるかのごとく思い誤らないことが大切である。*8
たとえ同じ体験をしても、受け取り方は人それぞれであり、そこを見誤ると相談者の気持ちが置いてけぼりとなってしまう。なので、相談を受ける場合においては、むしろ自分と似たような経験の相談事の方が混同しやすく危ういと言われる。
以上のように、「相談を受けるためのつらい経験をさせてあげるための暴力」というのは、たとえ体罰の是非を無視したとしても、全くの無意味であり、成り立たない理屈なのである。
相談先としての寺院
僧侶というものに、そのイメージから、心の相談を期待する人もいるかもしれない。そして、実際、その僧侶の個人の資質や別口で技術を学ぶことで、それを可能にする僧侶もいるだろう。しかし、僧堂を出て住職資格を持っているということは、上述したように、相談業についてはなんの担保にもならない。
上述の3年目の雲水はこの年、僧堂を出て家を継いだらしい。残念ながら、彼が3年間かけて得た“つらい経験”とやらは、少なくとも相談業については、全くの無意味であった。彼がその傲慢さで相談を引き受け、結果、被害者を生むという事態が発生しないことを切に願う。
体罰・理不尽な指導は正当化できない
前記事で述べたように、そもそもが体罰・理不尽な指導は様々な悪影響がある。そして、彼らのそれを正当化する理屈も、上記のとおり、僧堂関係者に留まらず被害を生みうる重大な問題をはらんでいるのである。
*1:現役からもOBからも。
*2:すべて同じ僧堂出身者であったので、もしかしたらその僧堂でのみ代々引き継がれている理屈なのかもしれない。/追記。同じ僧堂出身者のより年輩のOBによるとそんなことは言っていなかったとのこと。彼の言を信じるのであれば、ここ10年ほどで流布している理屈なのかもしれない。
*3:余談だが、彼になぜ僧堂に入ったのですか? と聞くと「自分の寺に跡継ぎがいなくなったら檀家さんが困るから」と答えた。私が出会った中では、在家出身の人間は非常に少なく、ほとんど皆そのような家の事情で僧堂に来ている。そこには仏教とか禅とか純粋経験だとかの話は出てこない。これについては私も同じ立場なので、とやかく言うことはできない。この件については、お寺と住居が一体となっているところが殆どで、兄弟のうち誰かが継がなければ生まれたときから住んでいる家がなくなってしまうという構造的な問題も関係している。
*4:他の専門家への紹介
*5:一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセラー養成講座テキスト 産業カウンセリング 改訂第6版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2012)