僧堂の趣旨は宗教にはない? 権威付けの男根主義システム僧堂

 

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もう1つの僧堂の趣旨

 ここまで、宗教的意義から僧堂の趣旨を考えていった。
 第2節では僧堂は禅の実践をする場であると定義した。しかし、実はもう1つ思っていたことがあった。
 それは、僧堂の趣旨は宗教的意義にあるのではなく、現実には研修機関的な意味合いの方が強いのではないかということである。

 

 これは、現役雲水と交流するなかで強く感じるところである。
 宗教の話は通じないが、お家の話となると会話がスムーズになる。お家の話とは、つまり、実家の寺のことである。
 「自分が僧堂を出て住職になることで檀家が安心する」「住職である父親との約束で希望する学部に合格できなかったら僧堂に入って家を継ぐことになっていた」「大学院での研究を継続したいが、就職が不安。安心して研究に打ち込むために、最悪でも家を継げるように僧堂に入った」
 私の曲解ではなく、これが平均的な雲水なのである。かくいう私も動機については大差ないので、これを批判する気はさらさらない*1

 

 また、10数年いたというOBに本稿を見てもらったところ、何の具体的な理屈もなしに感情的に怒りを表明されていた。曰く「こちらは相談に乗ってあげているだけで対話などしていない」とのことだった。*2
 しかし、宗教者たるもの、そのような対話ができないようではその資質を欠いているとしか言いようがない。*3少なくとも僧堂における宗教的意義について話せないようでは、論外であろう。
 このOB個人の資質であるのか。その可能性も大いにあるが、10数年いてこの有様ではやはり僧堂に宗教的意義はないのではないか

 

 では、僧堂の趣旨が宗教的意義でなく研修にあるとして、それはどのようなものか。

 まず、一番に考えられるのは、住職となったときに必要な実務的な研修であろう。

 

実務的な研修とは


 住職として必要な研修だとするならば、宗教的習熟を目的とするべきではないかと思われるかもしれないが、私の見知る限り、住職が宗教的に無知でも実務に支障がでる場面は少ない
 檀家だから宗教に関心があるかというとそうではない。信心深く見える人でも、その関心を紐解いていくと宗教的な関心ではなく風習的関心なことが多い。宗教的な疑問を問い論ずるのではなく、例えば、仏壇の供えものはどうしたらよいか、命日にはどうすればいいか、初盆はどう飾り付けをすればよいかといった形式的なものである。これらはその土地によって変わるものも多く、住職よりもその地に長くいる高齢者の方が詳しかったりする。つまりは、風習なのである。

 

 また、これらは先祖を祀る作法などへの関心である。このことは宗教的に大きな矛盾をはらむ。
 そもそもが仏教は輪廻を前提としている。
 以前に注釈でも引用したが『世界がわかる宗教社会学入門』にはこう書かれている。

仏教は輪廻を前提にしており、輪廻を信じなければ仏教は理解できないのですが、日本人は信じていません。輪廻を信じるなら、祖先崇拝はありえません。仏壇”先祖の位牌を祀る”のは、仏教でなく道教のやり方です*4

 つまり、仏教という宗教の意義を中心に考えると、先祖を祀る作法などは関係のない話となる。
 しかし、現に檀家が求めるのはそういうことものであり、お寺の経営的にもそのような先祖崇拝から発するものが主な収入源となる。
 また、この感覚は大凡の雲水らの感覚とも一致するところだと思われる。

 

 さて、では具体的な研修はと問われると、私は中にいる人間ではないので明確な回答はできない。
 あるOBは「(人手が足りなければ)法事の際に雲水を呼んでくれれば、彼らの勉強になる」と発言していたので、そのような形式的な学びの機会もあるのだろう。

 

研修機関僧堂の実体


 ただ、そのような研修であれば通いで十分対応可能である。合理的配慮も成しやすいであろう。
 しかし、実際に耳にするのは、そのようなものではない。


 とにかく、座禅に、読経に、作務。上記のような学びの機会もおそらくあると思うのだが、頻繁に耳にするのはこの3つであるので、やはりこれらが僧堂生活の大きな割合を占めているのだと思う。
 これらは

僧堂の趣旨を問うー合理的配慮を達成するためにー - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

仏教が前提とするフィクションとは - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

で記述してきたようなフィクションを前提とするならば、大きな割合を占めるのは当然のことだと思われる。しかし、雲水らをみるに、そのようなフィクションを前提としている様子はない。

 

 では、研修機関としての僧堂の実体は何なのか。
 私は、箔付け・権威付けのための実績作りにあるのだと考える。それも、(無意味な)苦痛に耐えた実績である。
 それは、檀家の納得を得られるだろう。他の同業者の納得を得られるだろう。
 それが無意味なものであっても、苦痛に耐えることが未だに美学的に語られることのある現在の日本では、一定の権威付けになる。繰り返すが、全く無意味なものであっても、である。
 また、そのような不条理な苦痛は男根主義的結束も生むだろう。「ようやく1人前の男になれたな」と同じ意味合いである。*5
 その箔付け・権威付けをもって、住職になることを周囲に納得させるのである。

 

対話か闘争か


 ここまで宗教の意義、仏教の前提、そこから生まれた禅の実践について記述した。そして、僧堂が、一見そのような前提に成り立っているようにみえて、実はそのような宗教的意義とは無関係のところにいる可能性を提示した。

 

 このような視点は私のバイアスによって生まれてしまったものなのか。偏向はしているだろう。しかし、話を聞いている限り、僧堂関係者もあるべき僧堂運営について宗教的意義と研修機関的存在の狭間で苦悩しているところがあるようだ。

 

 まずはそこを定める必要があるだろう。
 そして、合理的配慮と多様性という視点から述べると、宗教的意義に振れるならば

僧堂の趣旨を問うー合理的配慮を達成するためにー - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

で述べたように多様なあり方・合理的配慮が可能である。研修機関的存在に振れるとしても、実務の研修は同じく多様なあり方で実践可能である。*6

 

 問題は、箔付け・権威付けのための(超えるべきものとしての)研修機関的存在である。これは、このブログで批難してきた問題の根源である。
 そして、僧堂関係者も対外的に口に出せないだけで、これこそが僧堂の実体・本質なのだと意識的もしくは無意識的に認識しているのではないか。

 

 宗教的意義や実務的研修に重きを置くのであれば、対話ができる。これは今まで述べたとおりである。
 もし、箔付け・権威付けの僧堂を肯定するならば。私や、私のような立場の人間は闘わざるを得なくなる。また、真っ当な宗教者も闘うべきであろう。
 対話か闘争か。
 僧堂関係者の誠実な応答を期待したい。

*1:ただし、せっかくやるのであれば宗教的意義を体感したいとは思っている。

*2:そもそもが感情的になって何1つの具体的な話ができない時点で相談にもなっていない。

*3:

宗教者である以前にこのような対話は大学で当然に身に着けているべき技術でもある。なお、このOBは自分が同志社法学部卒であるとこを声高に仰っしゃられていた。

*4:

橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006) 142

*5:全く反吐が出る。

*6:私は上記で箔付け・権威付けの機関と述べたが、もちろんこれが間違っていることを望む。宗教的であれ研修的であれ、対話可能な僧堂であることを切に願う。