僧堂の趣旨を問うー合理的配慮を達成するためにー

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

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 上の記事では、現状の制度では対応できない特性を持った者への合理的配慮を検討するにあたって、僧堂制度で何を達成しようとしているのか=僧堂の趣旨が重要になることを記述した。なぜならば、僧堂の趣旨がわかれば、それぞれの特性に合わせた趣旨の達成の仕方を模索することが可能になるからである。

 そのような理由から、僧堂関係者には、「僧堂は(あるいはもっと細分化して、僧堂で行われている○○という行為は)こういう趣旨で行っているんだよ」という答えを求めている。しかし、今の所、このブログを読んだ関係者からそのような回答はなかなか得られていない。どうしても、自分が関わっているものが批判されている! と短絡的に受け止め、自己防衛的な反応をされてしまう。

 

 そういった状況なので、一度こちらから例を出してみることにした。つまり、私が考えている僧堂の趣旨はこのようなもので、仮にこの趣旨であるならばこういった代替が可能なのではないか、というものである。

 私は宗教については無学であり、おそらくツッコミどころが満載な話になると思う。しかし、「違う! こういった趣旨なんだ」と教えていただければ、上記のように「なるほど、そういった趣旨なんですね。では、○○といった特性でも、その趣旨を達成できる方法を一緒に考えましょう」と対話ができる。本記事はそのような目的で記述する。

 

私が考える僧堂の趣旨

 僧堂は禅の実践をする場*1である。

 禅の実践とは何か。端的に私の考えをいうと、それは純粋経験の体現であり、それはニアリーイコールで心理学でいうマインドフルネスである。

 ……もう、この時点で多少でも学がある人は、噴飯ないし呆れ返っていることだと思う。私もそのような自覚はあるとわかってもらったうえで、生暖かい目で続きを読んで貰えると幸いである。

純粋経験

 純粋経験と禅というと、哲学者の西田幾多郎である。

 西田は、若い頃に禅に傾倒し、その後処女作『善の研究』で「純粋経験」について論じている。*2

 私が雑に理解*3する純粋経験」とは、何らかの行為や対象物について解釈や判断をする以前の状態を指しているものである

 『善の研究』冒頭では「まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである」*4「例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである」*5とある。

 藤田正勝『西田幾多郎――生きることと哲学』によるとこれについて以下のように書かれている。

判断とは、真偽が問題になる事柄についてある定まった考えを下すことであり、「この花は赤い」とか、「この水は冷たい」といった命題の形で言い表される。「純粋経験」はそのような判断がなされる以前の状態であるということが言われているのである。*6

 西田は直接禅について論じているわけではない*7が、このような純粋経験は禅の目的とするものを言語化したものであると考える。

 つまり、判断や解釈をする以前の状態を体現する。禅で重要とされる作務、読経、座禅などはその実践といえる。そして、その実践は次に紹介するマインドフルネスと相似している。

マインドフルネス

 私は純粋経験をニアリーイコールでマインドフルネスと上述した。

 まず、マインドフルネスとは何か。

 マインドフルネスは第三世代の認知行動療法と言われる。*8

 認知行動療法は、「パブロフの犬」に代表されるような古典的条件づけなどをルーツとし、それにより「不適応的な行動や認知の直接的な変容をめざす」*9ものであった。

 しかし、マインドフルネスをはじめとする第三世代の認知行動療法は「不適応的な認知や感情自体を直接的に変えるのではなく、それらの体験とのつき合い方に焦点をあてる」*10ものである。

 日本マインドフルネス学会によれば

 本学会では、マインドフルネスを、“今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること” と定義する。

 なお、“観る”は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、さらにそれらによって生じる心の働きをも観る、という意味である。*11

とある。

 その他、「意図的に、今この瞬間に、価値判断することなく注意を向けること」*12などとも定義される。

 つまり、「評価せず」「とらわれのない状態」「価値判断することなく」、“今ここ”の体験に“注意を向ける”ことであり、それはすなわち、純粋経験の体現と言える。

 なお、マインドフルネスは元々仏教的発想からきているものであり、マインドフルネスという言葉自体、「仏教で重要な概念のSati(サティ)の英語訳」*13とのことである。

禅とのつながり

 マインドフルネスという心理学的概念が広まったのは、1980~90年代の話だが、仏教・禅ではこの実践を何千年何百年としていたことになる。

 私の受けた産業カウンセラーの講義で登壇していたある精神科医は「釈迦がやっていたのは、結局の所、今の科学でいう認知行動療法だった」と話していた。

 次の記事で記述するように、宗教はあるフィクションを共有することに意義があると考えると、現代科学概念を持ち込むのはナンセンスかもしれない。ただ、当時の苦しみから逃れる実践が、数千年後の現在でも、現代科学の観点から有効であるとして心理療法的実践が行われていることは、個人的に興味深く思う。

 

 修行というと何かきついもの、苦しいもの、厳しいものを想像すると思う。

 修行に限らず、旧来の体育会系の練習なんかもそうした価値観があっただろう。しかし、実際にはきついが為の練習ではなく、目的に沿った科学的根拠のあるトレーニングが効果を成す。

 修行も同じで、きついが為の修行ではなく、目的のための修行なのである。その目的は後世の言葉でいう「純粋経験」の体現であり、その実践は「マインドフルネス」というむしろ苦しみから逃れるものと相似するのである。

 だから、作務で大変な仕事量をこなしても、読経で大量の経を読んでも、座禅で長期間坐り続けても。そこに「純粋経験」の体現がなければ意味がない。ただ、つらい、苦しい、厳しい、だけである。

 作務で草を抜くことに心を向ける、読経で文字を追いながら声を出すことに心を向ける、座禅で今ここに心を向ける。これこそが意味のある行為*14であり、だからこそ、作務、読経、座禅を禅では大事にしているのだと私は考える。

私の考える僧堂の趣旨

 以上のように、私が考える僧堂の趣旨、または僧堂で行われる行為の趣旨、は純粋経験の体現であると考える。そして、それはマインドフルネス的実践に相似するものである。もちろん、ならばマインドフルネスを勉強して実践すればいいとなるので、仏教・禅の伝統的手法を用いて行うことになる。しかし、その本質は似通ったものである。

 逆にいうと、この純粋経験・マインドフルネス的なものから外れている伝統的手法は、本質でないと言える。

 日本の現代仏教全体がそうであるように、禅もその長い歴史の中で様々な価値観や他宗教の影響を受けてきたと思われる*15。このブログで批判してきたマッチョ主義的な部分もその類であると考える。

 本質はあくまで純粋経験の体現、今でいうマインドフルネス。それを伝統的手法で行うことにある。

この趣旨から考える合理的配慮*16

 私は僧堂内で行われていることについて細かく知っているわけではない。しかし、それぞれに相応の意味付けがあるのだろう。もちろん、意味付けがあろうとこのブログで指摘してきたような問題への回答にはならないのではあるが。ともかく、個々に意味付けがあり、それらは大きくは伝統的手法という言葉に回収されると思う。

 ここで問題とするのは、その手法が達成できない属性・特性を持つ人への合理的配慮である。

 私はここまでで本質は純粋経験の体現にあると繰り返し述べてきた。

 つまり、伝統的手法をそのまま遂行できなくとも、その本質を達成できれば良い(逆にいうと、伝統的手法を型どおりに遂行しても、本質が達成されないのであれば意味がない*17)。

 例えば、身体的に座禅ができない者であっても、その他の方法で純粋経験の体現を行うことは可能である。

 例えば、長期の共同生活ができない者であっても、直接的に純粋経験を体感する作業に本人が可能な範囲でスポット参加することは可能である。

 例えば、他人とのコミュニケーションが難しい者であっても、1人で純粋経験を体感する作業をしてもらうというのは可能である。

 例えば、外出が困難な者であっても、ZOOM等でやり取りをするなかで純粋経験を体感する作業をしてもらうというのは可能*18である。

 

 結局は、どのような特性の者であっても、この本質は達成が可能であると思う。当事者個人個人で様々な特性があるので、具体的に列挙していくのは難しいが、純粋経験の体現」をその人が“可能な範囲”の「伝統的手法で」行うことが解であると私は考える。

 もちろん、僧堂側の(人的、金銭的な)コストとの兼ね合いはあるので、そこらへんは当事者同士での話し合いとなるだろう。ただし、営利団体でないことや、住職資格という場合によってはその者の職と住居を同時に失わせるほどの重要な資格を差配する機関であることを考えると、営利団体以上に最大限の配慮が必要となると考える。

 

僧堂関係者の方々へ

 以上が、私の考える僧堂の趣旨、そしてその趣旨を達成しつつ一定の特性を持つ者への合理的配慮の提案である。

 さて、関係者の方々、どのように感じたであろうか。

 「何いってんだこいつは」「僧堂というものを全く理解できていない」「禅をなめてるのか」

 そのように感じて頂ければ、自らの無知をさらけ出してまで、この記事を書いた意義があったと思う。

 ぜひ、そう感じられたついでに「正しい僧堂の趣旨というのはだな~」と語ってもらいたい。

 そうすることで、初めて合理的配慮に向けた対話が成立すると考える。

 関係者の方々、是非にお願い致します。

 

余談

 また、ここまで自分の考えをさらけ出したので、仏教、さらには宗教について私の考えを次回の記事で更に記述した。

 簡潔にいうと、宗教は自明でないこと(フィクション)を共有することに意義があり、仏教も輪廻という自明でないことを前提としている。本記事で僧堂の趣旨は禅の実践と書いたが、さらに詳しくいうと、「僧堂の趣旨は、輪廻というフィクションを共有し、それを克服するために、禅の実践をする」ということになる。

 またも噴飯ものになるかもしれませんが、読んでいただけると幸いです。

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*1:この時点で現実と開きがある気もする。このブログを読んだ人に「あなたは僧堂に何を求めているの? 宗教的成熟? それとも、住職資格を得ること?」と問われたことがある。これはある意味とても示唆的な問いで、建前は宗教的成熟の場であると思うが、現実は自動車教習所のような免許を取る機関と化しているのではないか。

合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由で紹介したOGもそう発言しているし、私が出会った数十人の現役・OBで宗教的意義を求めて来ているものは(私が見た限り)ごくわずかであり、ほとんどが実家を継ぐための資格を得に来ている者であった。

*2:藤田正勝『西田幾多郎――生きることと哲学』(岩波新書、2007)26-28頁

*3:以下、あらゆるテクニカルタームについて、私の雑な理解を記述することになるが、生暖かい目で見ていただけると幸いである。

*4:西田幾多郎著(小坂国継 全注釈)『善の研究』(講談社学術文庫、2006)30頁

*5:西田 30頁

*6:藤田 53-54頁

*7:藤田 106-107頁

*8:一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセラー養成講座テキスト 産業カウンセリング 改訂第6版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2012)179頁

*9:日本カウンセリング協会 179頁

*10:日本カウンセリング協会 179頁

*11:日本マインドフルネス学会 設立趣旨 

https://mindfulness.jp.net/concept/ 2021年10月29日閲覧

*12:大山泰宏・小林真理子編『臨床心理面接特論Ⅰ ―心理支援に関する理論と実践―』(放送大学大学院教材、2019)214頁

*13:大山・小林 214頁

*14:だからといって、別に楽なわけではない。例えば、読経について、口馴染みだけでただ発声していると意外と余所事を考えられる。つらいのは時間の経過が遅いことだけだ。一方、マインドフルネス的に読んでみるととても消耗する。これはわかりやすい例だと思うので、実際にやってみてほしい。檀家さんの中には、暗記していることが偉いことという発想の方が結構多く、経本を手にするとガッカリみたいな反応をされることがある。実際は暗記して口馴染みで唱える方がよっぽど楽なのだけれど。もちろん、経本の文字を追うことに心を向けるというのはあくまで手段であり、純粋経験が達成されればそれ以外でも構わない。他の方法、例えばろうそくのゆらぎに心を向ける

*15:日本の現代仏教については後述するが、例えば先祖崇拝という道教の価値観がくっつき、結果として仏教の大前提である輪廻を否定することになっている。

*16:ちなみに合理的配慮とは、当事者双方が共にどうすればいいのか考えることがスタートである。したがって、この項目(またはこの記事自体)は話し合いの土台としての提言と受け取ってもらいたい。なお、私が接した関係者の中にはあたかも僧堂側が配慮してあげるかのような発言をする者がいた。合理的配慮とはマジョリティ(この場合は僧堂)側が配慮“してあげる”ものではない。上記のように、共に考えるものである。

*17:意味がないのだが、少なくとも私が接する関係者にはそのような人物が多い。型通りの遂行を自慢しつつ、本質の話はできない。ここで私が述べた本質が違うんだという意見はあると思うが、私と違った意見であろうとも本質について何かしらの意見を持っているはずだ。ここで言及しているような人物は、本質そのものについて何の発言もできないような者である。

*18:可能……なのかなとちょっと逡巡するところではある。なぜなら場・空間というのは重要な要素であると考えるからである。ただ、オンラインでマインドフルネスカウンセリングが実施されていることや、同じくオンラインでの法要が行われていることを考えると可能であるかと思う。