【記録】ある老師(僧堂主宰)のリアクション

「ブログにある意見を、当道場で受け入れるのは難しい」

 

 これは、ある僧堂の老師が発言したことである。正確には、仲介人が老師のメッセージとして伝えてきたもの。

 この発言に対する直接の批判は、「これだけ根拠立てて、これだけ多くの意見を書いているにも関わらず、何の意見も反論もなしに、受け入れるのは難しい、とはどういう了見か」に尽きる。

 ただし、言葉通りに受け取るなら、だ。

 この老師のメッセージは、改変、または、とても端折ってこちらに伝わっている可能性がある。

 

注意書き

 なお、対話のチャンネルはまだかろうじて閉じていないと考えるので、今後のコミュニケーションのことも考え、僧堂・老師については匿名とする。

 一方、僧堂という団体を主宰する以上、その者のこのような反応は記録として非常に有用なものであるとも考える。

 もし、このままの状態で対話が閉ざされてしまった場合は、この件について再度考えたい。

 

経緯

 これにはまず、経緯を説明する必要がある。

 まず、ある僧侶(以下H氏とする)に対し、件の老師に「僧堂に関する相談」という文書を渡してほしいとお願いしていた。

 その文書は「私の精神的な障害を前提に、それでも無理なく僧堂の趣旨を達するにはどうすればいいのか一緒に考えてもらえないか*1*2ということをメインの趣旨としている。一方で、そのような事情がなくても私は僧堂自体に懸念があり、それはこのようなものです、と、このブログを添付資料としてつけた。

 そして、対面での返答を希望し*3、それが難しいならまとまった文書*4での回答をお願いした。ただし、この際、私が「ペライチでもいいので」という軽い言い方をしてしまったために、その意図はうまく伝わらなかったのかもしれない。

 

老師の意見

 回答はLineで、前述の通りH氏のメッセージにまぎれて返ってきた。

 老師の意見であろうところを引用すると以下の通りである。

先日預かりました資料、○○僧堂の老師さんに見て頂きました。*5
結論から言いますと、ブログにある意見を、当道場で受け入れるのは難しい、との事です。
私たちでどうにか出来るレベルを超えているので、禅宗臨済宗全体で考えないといけない事かと思います。長い歴史の中で、社会に合わせ変わってきている部分もあるけれども、急激に改変するのは難しいでしょう。

 このあとはH氏の個人的なメッセージが続く。したがって、老師の意見は下2行のみであると考える。

 

ここから言えること

 ここから言えることは、「この老師」「ブログの意見は確認した」にも関わらず「何の反論も理屈も立てられず」「しかし、受け入れることは拒否した」ということである。

 また、私はこれに対する返事として、「受け入れることを拒否する」に至る具体的な話を教えてほしいとH氏に伝えた。それでもなお、追加説明が成されていない。このことはなおさら「何の反論も理屈も立てられず」「しかし、受け入れることは拒否した」ことを強調する状況となっている。*6

 

 他のツッコミどころとしては、

・「禅宗臨済宗全体で考えないといけない事」とのことだが、そのためにはまず当事者である「私たち」の対話が「全体で考え」るための第一歩であろう。

・「受け入れるのは難しい」「急激に改変するのは難しい」とのこと。しかし、ブログは問題提起はしているけれども、基本的に提言のようなものはしていない。何かを具体的に変えろと要求しているわけではない。もちろん、対話を通じて何かしら良い方向に変わっていくといいとは思っている。ただ、「急激に改変」を要求している文章ではない。よって、その回答そのものが的外れである。私自身そのような要求をするレベルに至れていないので、まずは対話を求めている。

・「ブログにある意見」というが、そもそも前述の通り、ブログは添付資料であって、「私の精神的な障害を前提に、それでも無理なく僧堂の趣旨を達するにはどうすればいいのか一緒に考えてもらえないか」という趣旨の文書がメインである。おそらく、ブログの内容が僧堂で長年サバイブできてしまった人にとってはショッキングだったことから、そっちに反応してしまったのだろう。*7ここでも私のお願いと老師の回答がすれ違ってしまっている。直接やり取りしていないこともあり、勿体ないディスコミュニケーションになってしまっている。

 

老師の真意次第

 さて、この老師のメッセージに対し、以上のような問題点を指摘した。しかし、このメッセージはあくまで、H氏による代弁であり、どこまでが老師の正確な意見であるかは疑問がある。

 話が大分端折られている可能性は高いし、H氏個人の考えが反映されている可能性もある。

 つまり、ここまでこの発言の問題点をあげてきたが、老師の真意次第ではまるっきりひっくり返る話である。

 

 そのようなことから、直接の対話をお願いしたが、それ以前の段階で、H氏とのコミュニケーション不全に陥ってしまった。

 「老師が、自身のメッセージがどういう文面で伝わったか把握していて」その上で「直接の対話なり追加説明なりが必要だという話が老師に伝わっていた場合」それでもなお無視を決め込むという態度は、上記のような批判から逃れられないだろう。しかし、H氏とのやり取りから感じ取るに、その可能性は低いのではないかとは感じている。

 

老師へのお願い

 もし、この記事を見たのであれば、リアクションがほしい。

 まず、当初のお願いの通り、相談に乗っていただけるのであれば個人的にはありがたいことこの上ない。

 一方で、H氏から送られてきたメッセージが老師の本意である場合。つまり、ブログに対して意見があるのであれば、その具体的な中身を提示してもらいたい

 もし、このブログが前提としている僧堂の実態が間違っているのであれば、それは将来的に僧堂に行くことを考えているこちらにとってもうれしいことである。前提はその通りであるが○○という理屈でこのブログで懸念しているようなことは起こらない、ということでも同じくこちらにとってうれしいことである。

 もしくは、○○という理由があるから△△という行為をやめることはできない、ということも考えられる。既にこのブログで言及しているように、そのような宗教的理由があろうとも、いじめや暴力被害、精神的後遺症などの懸念があることへの返答にはならない。しかし、○○という理由=その行為の趣旨がわかれば、ではその趣旨を達成しつつ懸念するようなリスクを減らす方法はないか、と建設的な対話が可能になる。

 

 このように決して敵対したいわけではなく、対話を求めている。

 上記であげたようなもの以外の意見もあるかもしれない。しかし、どのようなものであっても、こちらにとって僧堂に対する解像度をあげる有用な話になる。

 これは老師の側も同じであると思う。ブログという文字だけでは伝わらないことも多い。直接、このような意見を持つ私という人間とコミュニケーションをとることによって、自分が主宰するものに対し異なる意見を持つ者への解像度はあがるであろう。

 これは主宰する者の責務でもあると思うまったく見ず知らずの場合はともかく、あなたはもうこのブログを読んでしまい、そのことはこちらに伝わっている*8。そして、そのことはこの記事を通じて第三者に発信されている。このような状況である以上、知らないふりをして僧堂主宰を続けることは許されないと考える。

 

 私自身も体調などの条件が整えば、こちらからアポイントメント*9を取りたいと考えている。

 

余談

 ちなみに、このH氏とのやり取りも中々ユニークなものであった。ブログを読んだことから、徐々に態度を硬化させ、権威主義を振りかざすようになっていく様は、ある意味僧堂に10数年いただけあると思わせるものがあった。

 この人物とのやり取りもいずれ記録として記事にまとめたいと考えている。

*1:つまり、合理的配慮。合理的配慮のスタートは、どうすれば(障害のある中)目的を達成できるのかと前向きに当事者同士が考えるところにある。

*2:本ブログの「合理的配慮と多様な代替と僧堂ではそれが難しい理由」も参照。同じような意見を述べている。

*3:なにせ「一緒に考えてほしい」が趣旨である。この形式が1番スムーズであろう。

*4:なにせ「一緒に考えてほしい」が趣旨である。

*5:特定を防止するために、少しだけこちらで文言を変更した。

*6:ただし、H氏が老師にそのことを伝えていない可能性があり、その場合は事情が変わってくる。

*7:後述するように、この反応が老師のものか、H氏のものかはわからない。ただ、少なくともH氏はそのようなショックを受けていることは、やり取りを交わす中で伝わってきた。

*8:H氏が嘘をついていなければ。

*9:老師と対面するにはそれ相応の手続きがあるという。師匠を通じて、金銭を渡し、アポイントメントを取る。事を荒げたくはないので、なるべくこれに則った手続きをとりたいとは思う。しかし、とても個人的な事情で難しいかもしれない。場合によっては、正面から個人的にアプローチをとるかもしれない。老師だなんだといっても所詮人は人なのである。私は別件で肩書がつくような人物に直接アプローチをとることが何度かあったが、そのような人物ほど意見は違えど応じてくれる傾向にあった。逆に中途半端な肩書の人間ほど逃げ回る印象を受けた。『偉い人ほどよく逃げる』という本が話題になっているくらいだし、その時の私は偶々運が良かっただけなのかもしれないが。話が逸れたが、その際は肩書に相応する人間性を示してほしいと願う。