僧堂における理不尽なルール

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

(↑トップ記事)

 

  トップ記事でも述べたが、理不尽なルールはストレッサーとなり、いじめが生まれやすい環境を作る

 

 私は外から見聞きしているだけなので、僧堂のルールについて、詳しく述べるほどの知識はない。

 しかし、漏れ聞こえてくる話だけで細々と疑問に思うルールが多々あった。

 以下、それらについて私見を交えつつ、列挙する。なお、列挙した結果、長々となってしまったので、「ルールの基本的な考え方」の項目まで読み飛ばしてもらっても構わない。

 

 

場の制限に関するもの

 これは「ストレス発散の仕方が限られる環境」に関わるものである。

 詳しくは下記記事「いじめや自死を生む僧堂の環境」にて述べるが、時間・場所を管理されている空間ではストレス発散の仕方が限られることから、いじめという発散手段がとられやすくなる。また、場が限られることで、そこで居場所がなくなると自尊心の低下や自死を招きやすくなる

 したがって、多様なストレス発散方法を容認することや、数多くの場を用意することが大切になるのだが、僧堂では真逆のことが行われている。

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・外出の制限・禁止

  僧堂によってバラバラらしいが、私の聞いた僧堂では、まず経を暗記するまでは外出が許されない*1。そして、外出が許された場合、月3日、太陽が出ている時間のみ外出することができるという。

 外出の際も雲水であることが義務付けられ、作務衣を着用し、不適切な行動は許されない。

 ちなみに、一定の月日が経つと、先輩雲水から深夜に外に出られる抜け道を教えてもらえるらしい。個人的にはこのような男根主義的結束に吐き気をもよおす

・私的刑罰

  このような中で、私的刑罰も行われいる。私が聞いた話では、ある雲水が外出時に作務衣でなく私服を着ているところを見つかり、数ヶ月外出禁止の罰を受けたという話があった。

 まず、自由時間である外出時にも作務衣着用を強要すること自体が理不尽なルールである*2

 そして、それに違反したからと、私的に外出禁止などという刑罰を与えることは、理不尽どころかもはや監禁である。いったい、どのような権限でそのようなことが行えるのか。

スマホ禁止

 僧堂ではスマホ等は禁止だという。たしかにそのような電子デバイスは宗教的空間に似つかわしくないかもしれない。しかし、下記のような問題から目を背けることは許されない。

 スマホ等のアイテムは、物理的に場を拘束されている中で、唯一別の社会集団とつながれるものである。詳しくは上記した別記事「いじめや自死を生む僧堂の環境」にて述べるが、閉鎖された集団にいると「外の環境を知ることはなかなか叶わないため、今自分のいる、いじめが起こるような環境を疑うことが難しい*3」とされる。その中で、スマホ等のアイテムは今いる環境を他の環境という視点から客観的に評価する手助けとなる。また、単純に、別の世界に目をそらせることはストレスコーピング上有用でもある。その他、録音・録画等そこで行われているいじめやハラスメントの証拠を残すときにも役に立つ。

 逆に言うと、管理する側・服従させる側にとってはとても邪魔な存在でもある。したがって、僧堂に限らず持ち込み禁止や没収などの対象となりやすい。しかし、このようなある種のライフラインを奪うことはもはや理不尽の一言を超えていると考える。

 しかし、禅寺側はどうも軽く考えているようだ。なぜなら、一般の企業相手に行われた1週間の宿泊研修でも、同じようにスマホ没収を行っていたからである。開かれた一般人相手でもスマホ没収くらいはしても大丈夫、むしろ当然と思っているのである。

 繰り返すが、スマホは様々な理不尽から抜け出すためのライフラインである。それを没収することは軽く済まされる話ではない。

 

 ちなみに、私が聴いたのはスマホの話だけだったが、その他の持ち物はどうなのだろう。上で述べたようにカメラや録音機はいじめ・ハラスメント対策にとても有用である。そのような身を守るための道具の持ち込みはどうなのか、気になるところである*4

 

 僧堂劣等原則

 刑事政策で言われる刑務所劣等原則*5のもじりである。

 話を聞くに、僧堂は一般社会の水準より劣った環境で生活しているようだ。しかし、原始主義的に禅が始まった当時の生活の再現というわけでもないらしい。

 

・洗濯機

 例えば、洗濯機。40代と20代のOBの会話で「今も洗濯は手洗い? 洗濯機導入された?」「今は2槽式洗濯機でやってます」というものを聞いた。

 私はストレス機会はなるべく減らすべきだと考えるので、洗濯機が導入されたこと自体は素晴らしいと思うが、なぜ数世代前のものなのだろうか。

 導入するなら最新家電とは言わないまでも、よりストレス機会を減らせるようなものを導入するべきだろう。価格的にも現実的な値段で手に入るものである。逆に原始的な生活に意味を見出すならば、2槽式とはいえ導入するべきではないのではないか。なんとも中途半端に見える。

 刑務所劣等原則的な、世代遅れの環境で苦痛をあたえることを目的としているとしか思えない。体罰の理由に「つらい経験をさせてやるため」と言ったように、僧堂は苦痛なこと自体に意味を見出しているように映る。しかし、体罰の記事でも述べたようにその「つらい経験」とやらは無意味であるし、冒頭で述べたようにストレッサーはいじめにつながるものなので可能な限り減らした方がいいと考える。

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・エアコンと熱中症と蚊の問題

 同じような話に、エアコンがある。

 現役雲水とは夏に会うことが多いので、毎年暑さの話になるが、ここ数年の気候変動でより大きな問題になっている。

 ある現役雲水は「普段寝起きしているところだと風通しが悪いので、皆で廊下に出て寝てます。でも、蚊が多くて毎日寝付けません。老師もさすがにと扇風機を1台購入してくれたのですが、扇風機くらいじゃどうにも……」と語った。

 これは、洗濯機と違い、健康に直接関わってくる問題である。熱中症は命にも関わるし、蚊も様々な病気の媒介者である。もちろん、その暑さや痒さによるストレスも今まで述べてきたように問題である。

 また、暑さは精神論でどうにかなるものではなく、如実に人間の行動能力に影響が出る姫路市役所ではエアコンの設定温度を28℃から25℃に下げたところ、「残業時間は14.3%減少、人件費は約4000万円削減」になったという*6。考えてみれば、動物が適温でない環境になると動きが緩慢になるわけで、人間も当然同じである。

 ある住職がツイッターで「月参りでエアコン嫌いの高齢者に会う度に「もうエアコンは生命維持装置だから使いましょう」と言ってまわっている」とツイートしていたが、ぜひ僧堂にも同じことを言ってほしい。物理的に寺の建物にエアコンをつけるのが難しいということもあるかもしれない。しかし、そう言っても上で述べた問題が解決されることはないので、「物理的に無理だから」で終わらすのではなく、どうすれば問題をクリアできるかという姿勢で向き合うことが必要である。

 

・剃髪のカミソリ

 僧堂の体験を綴ったブログに「入門が許された際、先輩雲水に剃髪されたが、昔ながらのカミソリで頭が血だらけになった」とあった。昔の経験らしく、今はどうなっているのかわからないが、普通に感染症等があるうえ、剃る側にも刑事的リスクがある。素直に最新家電を使えばいいと思う。

 

その他諸々

・理不尽な上下関係

 他の記事でも述べているが、入門の時期により厳格な上下関係が敷かれる。

 入門が許されたとして、すべての者が彼の目上の者となり、たとえ入門が数時間の違いであっても、食事の際も整列の際も、すべてが入門順位。それがある程度までの支配権利でふるわれていく。一、二年の修行を経た先輩格の雲水は、新入りの雲水にとっては雲の上の人に見えてしまうのである。

 彼らは警策をふるのみならず、新入りの作業状況の善し悪しまで判断する。そして上質の色付きの衣を着て、より広い部屋で寝起きが許される。さらに短期間、寺から離れることも正式に許され、非公式には肉を食い、酒を飲み、寺に寄与された若干の金や、贈答品を受け取ることまでが暗に許される。

 こうして見れば、禅寺の生活と訓練様式は軍隊でのそれと、あきらかに共通性があることがわかる。*7

 このような厳格な格付けは管理・服従に置いて支配する側にとって有効に働くが、適用される側にとっては理不尽この上ない

 そして、同年でも入門時間によって差がつくとあるが、これにより甚だ無駄な駆け引きが行われているという。ある僧堂では、入門できる期間が決まっている。その期間の早いうちに入門してしまうと、同年の中で1番上となるが、1番仕事を任されるので忙しい。逆に遅く入門すると、僧堂内最低位になってしまうので、肩身が狭い。なので、うまいこと中間を目指して入門時期を見定めるのだという。無駄なこと、この上ない。

・連帯責任

 私は精神障害2級持ちなのだが、その件についてあるOBに相談した際に言われたセリフが次の通り。

 「私が僧堂にいたときも、発達障害の人がいたけど、彼がミスしても先輩雲水は彼を叱ったりしませんでした。周りの雲水を叱ったのです。ちゃんと手助けしてやれ、と。だから、大丈夫ですよ」

 このような連帯責任について、荻上チキ『いじめを生む教室』では以下のように記述されている。

 「連帯責任」という形で罰を受けたことがある児童のクラスでは、より多くいじめが発生している、ということが明らかにされています。連帯責任というのは、軍隊の論理と同じで、「一人がミスを犯したら全員の責任だ」とすることによって、相互監視を促す管理の仕方です。

 しかし、相互監視を促すことは、特定の人物を「足を引っ張る存在」として可視化させることでもあり、その人に対するいらだちを覚えさせます。(中略)

 「連帯責任」という謎の論理は、そもそも採用すべきでない指導法だと、強く言っておきたいと思います。*8

 こんなこと言われるまでもなくわかりそうなものであるが、この相談に乗ってくれたOBがあまりにも曇りなき笑顔で話すのでとても面食らった覚えがある。

 連帯責任は、上記の「理不尽な上下関係」と同じく、管理・服従に置いて支配する側にとって有効に働くが、適用される側にとっては理不尽この上ないルールである。また、このセリフは、あなたが「足を引っ張る存在」だとしても大丈夫ですよという文脈でのセリフであるが、私がこの立場なら当然とてもいたたまれない気持ちになるし、居場所がなくなったように感じるであろう。

・短い睡眠時間

 僧堂関係者に話を聞くと、20代のうちに来たほうがいいとよく言われる。なぜなら、1日3時間の睡眠で生活できる体力がないと駄目だというのだ。

 同じ口で、「健康には気を使ってて、何かあれば病院へ行く許可も出す*9から心配いらない」などというのだが、1日3時間の睡眠のどこが健康的なのだろうか。

 私の主治医は睡眠が専門なのだが、彼によると「7時間半が適正で、これより短いと寿命の平均値は下がる」という。もはや緩やかな殺人である*10

 また、私自身は睡眠時間が長い方で、適正睡眠時間ですら毎日続くとうつ期*11になりやすくなる。1日3時間睡眠だと、確実に希死念慮が生じる程度のうつ状態にはなる自信がある。

 そもそもが、睡眠というとてもプライベートな行動まで指揮監督下に置かれて管理されるという事自体が大変な理不尽である、ということを理解するべきである。

 

・入浴の制限

 入浴は僧堂によって違いもある*12そうだが、基本は4と9のつく日(四九日)が入浴できる日となっている。

 宗教的意味は置いといて、現実には当然のストレス要因であり、また、身体的健康にも影響がある。

 個人的に心配なことは2つ。皮膚炎と自己臭恐怖症である。

 前者は、脂漏性皮膚炎。ストレスが原因でこの皮膚炎になってから、毎日2回の塗り薬がないと痒みで眠れないほどになる(塗っていてもなる)。医者からは完治は難しいので、うまくコントロールしながら付き合っていくようにと言われている。カビの繁殖が原因とも言われ、よく洗うようにとも指示されているが、5日に1回頻度の入浴では悪化することが当然予想される。

 後者は、自分の体臭等を病的に気にするものである。実際の臭いとは別に、妄想に近いレベルで気になってしまう*13。私はこれにより外出恐怖となり、引きこもっていた時期がある。5日に1回頻度の入浴という不衛生な環境で(なまじ実際に臭うだけに)再発しないか、とても不安がある。

 

・大食いの強制

 僧堂では、大量の食事を、全員で、短時間で、食べ終えなければならないと聞く。理由としては、檀家等に食事を出された際、すべて食べきらなければならないからだ、とも聞いたことがある。

 しかし、無理に食べきるより、無理な時は無理、といえる社会のほうが健全であろう。学校でも給食の完食指導は、会食恐怖症につながるなど問題視されている*14。「食べられないことはわがままではなく、その人なりの理由があり、適切な支援もある*15」というようにその人個人やその時の体調等に合わせて食べられる方が健全である。

 なお、ある僧堂を見学した際、現役雲水数人とこの件について口論したことがある。その帰り、見送ってくれた最年長の雲水が「食べるのが苦手なの?」と聞いてきたが、あまりもの理解のなさに絶句した覚えがある。この問題の本質は他のルールと同じ、個人の自由を不当に縛る*16「理不尽なルール」であるというところにある。偶々その時は話の流れで食事に焦点があたったが、私が「食べるのが苦手」だから反発したのではなく、僧堂を取り巻く多くの理不尽なルールの1つとして批判したのである。

 

・トイレ掃除

 一般向けの研修*17にて「トイレ掃除は掃除の中でも、特に徳が高い行いである」と説明された。

 よく言われがちなセリフではあるが、つまり“人が嫌がることを嫌と言わずにやることは素晴らしい”という主張であり、このような欺瞞に虫酸が走る。

 "嫌なことを嫌と言わない美徳"は、為政者や権力関係で上の立場にあるものに利するものである。嫌なことは嫌と言える社会こそが発展的な社会なのだ。

 話が大きくなったが、この場合は「トイレ掃除は嫌。だけど、汚れた状態も嫌。なので、やらないと仕方ないな」と粛々とやるのが真っ当な思考であると考えるが、いかがだろうか。

 また、トイレ掃除を崇高なものかのように主張する者の中には、素手でやることを推奨する人物が散見される。言うまでもなく、不衛生かつ無意味な行為であるので、僧堂でそのようなことが行われていないよう願うばかりである。

・剃髪

 ここにまで踏み込むべきかは迷ったが、昨今の風潮から今後髪についての価値観も変化していくと思われるので、一考記述することにした。

 昨今の校則問題の盛り上がりは、髪を校則で矯正される理不尽さへの注目から始まった。

 当然である。髪は身体の一部であり、それを他人が操作できるという考えは狂っているとしか言いようがない。髪を切る行為が傷害罪か暴行罪かというのは法学部生が初期に勉強するところであるように、そもそもが意に反して髪を切るというのは暴力なのだ、という意識を持つ必要がある。ましてや、丸刈りというのはアイドルグループの例などが顕著であるが、なにかの罰や贖罪の証として認識されている側面がある。それを強制されることは、文脈によっては屈辱的な行為と受け止められても仕方がない。

 また、一般に若い人が坊主頭にしていると、何を発さずとも他人に僧侶と理解される。単純に目立ちもするし、偏見の目で見られることも多い。ある種、昔の囚人への焼印と同じで、24時間そこから逃れることができない。

 一方で、宗教的意味を考える必要もある。このブログでは宗教的論議は極力避けて、1人間の視点を大切に僧堂というシステムを論じてきたが、この件については触れずにいくのは難しい。しかし、例えば女性器切除のように身体を傷つける風習は如何な歴史的意義があろうとも非難されている。髪についても、個人の身体への所有の価値観が広がっていくにつれ、そのような枠組みに入っていくこともあろうかと考える。

 また、実際的には雲水らはどう受け止めることが多いのか

 ある雲水が「最近は僧侶のくせに剃髪しないやつが増えてきて*18と私に言ってきたことがある。この時の文脈は宗教的意味に基づいたものではなかった。つまり、彼(ら)にとって、剃髪は男根主義的結束の1つであり、そこから逸脱したものは陰口を叩いてOKというある種の踏み絵のようなものになっていた。

 

 やはり、剃髪の“強制”については改められるべきものであろう。他人の身体を強制的に操作するのは暴力である。

 宗教的意味においては、そもそもこのブログ全体の主張が、如何に宗教的意味が歴史があろうとも踏んでいる足はどけなくてはならないというものである。剃髪も今まで気づかなかった踏んでいる行為に該当するだろう。

 また、パートナーを持つことについて禁止してきたのを、後継者不足という事情はあるものの、むしろパートナーを持つことを推奨するように変わった*19ように、宗教的意味は絶対的なものではない。原理主義を主張するのなら話は別だが、禅寺関係者にそのような者は私の知る限り殆どいない。

 

 むしろ、剃髪が当然だと思われている僧侶だからこそ、“髪は身体の一部で、他人の身体を強制的に操作できると思うことは暴力的なのだ”と発信する力がある。僧侶が自由に髪を伸ばしカラーリング等をすることでそれを発信できる*20

 私も偶に「坊主頭にしなくていいんですか?」「剃髪しないといけないんちゃうん?」と聞かれることがある。「うちの派閥の規則では大丈夫なんですよー」と躱した返答をしていたが、これからは「あなたにその気はないのはわかっていますけど、他人の髪をこうしなくてはいけないと主張することは暴力なんですよー」と発信していきたい。

 

 追記 南禅寺関係者の発言

 ある年の得度式で、当時の南禅寺関係者*21が剃髪について言及していたことを思い出したので追記する。

 その年は20代女性が参加していた。

 得度式が終わったとき、上座に座っていた初老の男性がその女性に声をかけた。

 「君もボウズにせんとあかんな」

 その時のニヤニヤとした顔も含めて印象的だった。

 

 当時は違和感をおぼえつつもその違和感を言語化できなかったが、今ならわかる。

 この発言と表情から読み取れるメッセージは以下の通り。

 まず、女性はボウズ頭にすることを当然嫌がるだろうという性的ラベリングがある。他人の趣向をその性から決めつけるのは当然に問題でセクシャルハラスメントである。

 そして、その嫌がるだろうという前提のうえで、ニヤニヤしながらこのセリフを言うということは、剃髪が一種の踏み絵と(無意識にだろうが)みなしているということである。

 それを踏んで(=ボウズにするという嫌な行為)はじめて仲間に認めるというマッチョイズムだ。

 

 つまり、この南禅寺関係者の発言は、セクシャルハラスメント、かつ、マッチョイズム・男根主義的発言といえる。

 

 このセリフから、かつての歴史的意義はともかく、剃髪の現代的本質が読み取れる。

 剃髪は踏み絵にすぎないということだ。男根主義的、軍隊的、体育会的、どのような言葉で表してもいいが、恥ずべき習慣である。

 別記事で禅宗と軍隊やブラック企業との親和性について記述したが、剃髪がその入口ということがこの件からもよくわかる。

 剃髪について、冒頭「ここまで踏み込むべきかは迷ったが」と記述したが、むしろこの剃髪こそが最も批難すべき慣習である。

 

 また、注釈でこの人物の当時の立場について記述したが、たとえその記憶が間違っていたとしても、あの場で上座にいたということはこの人物は南禅寺でそれなりの肩書をもつ立場であったはずだ。

 そのような立場の人間がこのレベルの人権認識であったことも強調しときたい。

 

 

 ルールの基本的な考え方

 以上、疑問に思うルールを列挙してきた。

 

 理不尽なルールについて考えるとき、重要なことは「基本として人は自由であり、それを制限する際はそうすることでしか守れない保護法益が、制限される自由を上回ったときのみ」ということである。自由を制限するルールは最後の最後の手段なのである。

 

 荻上チキ『いじめを生む教室』ではこのような記述が出てくる。

 

そもそも、学校への携帯電話の持ち込み禁止や、授業中に飲み物を飲んではいけない、といったようなルールは、なかなかに理不尽なものです。他にも、出歩きや漫画の持ち込みを禁止しているのも同様です。*22

 

 え? それって理不尽? 普通のルールじゃないの? と思う人も多いのではないだろうか。

 ここで基本に立ち返る必要がある。基本として人は自由であり、それを制限する際はそうすることでしか守れない保護法益が、制限される自由を上回ったときのみである。

 つまり、例えば「携帯電話の持ち込み禁止」をしないと守れないものは何か。そうまでして守らないといけないものなのか。また、それは他の手段では回避し得ないのだろうか。

 そう考えたうえで、どうしてもそのルールを作ること以外では解決できない場合にのみ、ルールは成立する。そうでないルールは理不尽なルールなのだ。

 

 僧堂のルールも同じである。

 ここまでに列挙したルールはどうだろうか。

 

「閉じた空間」「不均衡な力関係」で理不尽なルールを疑う難しさ

 また、理不尽なルールはいじめを生むストレッサーとなること以外にも問題をはらむ。

 このようなルールが一種の権力関係、つまり学校でいえば先生と生徒、僧堂でいえば先輩と後輩のような立場に差がある空間では、立場が下の者のプレッシャーはより強くなる。

 「指導死」という言葉を造った大貫隆志氏の息子さんは、学校でお菓子を食べたことで“指導”を受けた翌日に自殺をしている。*23

 

「お菓子を食べたことを注意されたくらいで、なぜ」。
その気持ちは今でも変わりませんが、学校関係者との接触を続けるうちに、生徒の行動をすべてコントロールし、ルール違反や反抗の芽を徹底的につみ取る指導が浮かび上がってきました*24

 

 上記の事件は、学校という閉じた空間で、先生という立場が上の人物による”指導”により、その規範を絶対視してしまったことから始まっていると推察できる。外から見ると理不尽なルールと簡単にわかるものでも、「閉じた空間」「不均衡な力関係」という環境ではそれをそうと捉えるのは難しい

 僧堂では執行するのは同じ雲水であるが、ここまで述べてきたように、その上下関係、権力関係は軍隊のように大きな差がある。そして、その権力関係の中、一般社会とは切り離された空間で24時間生活する。このような環境で、ある種のマインドコントロールが起こることは想像に難くない

 些細なルール違反、それもルール自体が理不尽なものであっても、自罰的になり、この世に居られない気持ちになり、最悪の場合自死を選ぶ。

 そんなことが起こり得る土壌が僧堂にはあると考える。

 

立ち止まって、一考を

 この記事では思いつく限り、違和感のあるルールについて記述してきた。「これは明らかに理不尽」というものから、「個人的には違和感があるけれど、現状の社会通念では問題視されないよなぁ」というものまで様々に列挙した。

 後者についても記述した意図としては、社会通念は常に変化するものであり、また、言葉にされることで初めて問題として認識される場合もあることから、問題提起のために思いつく限り記述を試みた。

 

 僧堂関係者には、それぞれについて、立ち止まって、一考をお願いしたい。

 

*1:別記事に書いたが、これを解説してくれた雲水は同じ口で「はじめから経がうまいといじめられる」と発言していた。外出の件と関連があるのだろうか。

*2:例えば、労働法における休憩時間は、完全に使用者の指揮監督から離脱している必要がある。その趣旨は8時間労働なら1時間はそのような完全に自由な時間がないとストレスから健康を害するところにあると考える。僧堂はただでさえ24時間管理下にあるうえに、月数回の外出ですら雲水であることを強要される。そのような環境では、重いストレスがかかることは容易に想像できる。

*3:荻上チキ『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書、2018)102頁

*4:持ち物が明確に決められているところから考えるに、それ以外のものは持ち込み禁止である可能性が高いように思う。

*5:刑務所の生活を一般社会よりも低い環境にするのが刑務所劣等原則である。罰なのだから当然と思われるかもしれないが、これにより受刑者の再社会化が困難になる。更生保護の観点から刑務所の生活は一般社会と同等のものにした方が、再犯率も抑えられ結果的に社会の安定に寄与することになると言われる。

*6:“エアコン25℃設定”に効果あり…検証結果発表の姫路市役所「環境省から問い合わせありました」 https://www.fnn.jp/articles/-/13558 (2021年6月1日 閲覧)

*7:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア著(エイミー・ルイーズ・ツジモト訳)『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015)268頁

*8:荻上 103頁

*9:当然のことであるし、“許可を出す”などと病院へのアクセスを管理できる発想がもう阿呆としか言いようがない。

*10:なお、俺らだって仕事でそんな寝る時間ないわという人もいるだろうが、当然それも緩やかな殺人なので適切に闘おう。あなたが使用者側の場合は悔い改めよう。あなたが使用者側で、あなただけが睡眠不足ならそれはそれで自由なので好きに生きると良い。

*11:定期的にうつ状態の時期が来る病気のため。

*12:関東のある僧堂では人前に出る機会が多く、毎日入浴ができるということで、わざわざ遠方からその僧堂に行く人もいる、と聞いた。

*13:私の経験では、片側3車線の交差点で信号待ちをしている際、対向車線の運転手が鼻に手をやっただけで自分の体臭のせいだと思い込んでしまうことがあった。冷静な頭ではありえないとわかるのだが、発症中はそれが難しい。

*14:「会食恐怖症」給食の完食指導が引き金に 

https://news.yahoo.co.jp/articles/eaa8a70bd49e63186c7975d67adc492724b187c2 2021年6月6日 閲覧

*15:給食苦手な子、理解して 教師向けに指導資料、ネットで無料公開 https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210517-615999.php 2021年6月6日閲覧

*16:後述するが、「基本として人は自由であり、それを制限する際はそうすることでしか守れない保護法益が、制限される自由を上回ったときのみである」

*17:企業禅。別記事でも述べたが、戦時中の軍人育成に禅の「戒律、服従、忠誠」が援用された。戦後、同じように企業家は、いわゆるブラック企業戦士の育成に禅を援用している。そして、禅の側もそれに乗り、新人研修などを請け負う寺院が出てきている。私が参加したこの研修もその1つ。 ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア著(エイミー・ルイーズ・ツジモト訳)『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015)第十二章 戦後日本における企業禅の登場 参照

*18:雲水時は別として、髪は自由となっている宗派は多いようだ。背景にはお寺だけでは食っていけず、一般の会社で働く必要があるが、坊主頭だと差し障りが出ることがあるという事情があるらしい

*19:それはそれで問題をはらんでいる。独り身でいるとむしろ檀家の側から、早く結婚を、結婚したならば早くお子を、と催促される場面がある。彼らの殆どは悪意なく言っているのだが、他人の家族観に土足で踏み入る行為である。

*20:校則問題を研究する内田良氏は、あえて研究者という真面目そうな立場の自分が金髪や赤髪にすることで、髪は自分のもので自由なのだと発信している(知らない方は検索してみてもらいたいが、個人的な印象ではハッキリ言って似合ってはいない。とても金髪や赤髪というものからイメージするヤンチャな風貌では全く無い。だからこそ、意味があるのだろう)。同じようなことが、僧侶だからこそできると考える。

*21:その人物は当時の南禅寺官長であったと記憶している。ただし、かなり前の記憶なので確実に言い切れない部分もあり、本文では関係者と記述した

*22:荻上 98-99頁

*23:13歳の絶望 陵平はなぜ死を選んだのか 

http://www.2nd-gate.com/ryohei.html 2021年4月20日 閲覧

*24:13歳の絶望 陵平はなぜ死を選んだのか イントロダクション 

http://www.2nd-gate.com/introduction.html

 2021年4月20日 閲覧

体罰を正当化する理屈とその問題点

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

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僧堂における体罰と理不尽な指導

ztos.hatenablog.com

 上の記事にて、僧堂では体罰・理不尽な指導が横行していて、それにはどのような悪影響があるのかについて記述した。

 しかし、当事者に話を聞くと、これらの体罰・理不尽な指導を正当化できる理屈があるらしい。

 以下、彼らの言い分と私の見解を記述する。

 

つらい経験をさせてやるために殴るんや

 

 このような体罰について、複数の雲水*1からそれを正当化する同じ理屈を聞いた*2

 その理屈とは端的にいうと「つらい経験をしていないとつらい人の気持ちがわからない。だから、先輩がつらい経験をさせてあげるために殴るのだ」というものである。

 当時現役3年目の雲水の言葉が特に印象に残っているので紹介する。

 「お寺とはどういう場所や? 人生の最後を飾る重要な場所やろ? そんな場所やから、深刻な相談をしにくる檀家も多い。例えば、明日にでも死のうと思っている人が相談にきたとしてや。そんな人を前にして、つらい経験してないやつが何を言える? やから、そのつらい経験をさせてやるために俺らは殴るんや

 

 中々に衝撃的な言葉であった。

 前段は、お寺をいわゆる“葬式仏教”の場としてしか見てなく、素人目にもどうなんだろうと思うが置いておく*3

 後段の、希死念慮を持っている人の相談を受けるためには自らがつらい経験をしている必要がある、という点について、以下のような問題があると考える。

 

希死念慮を自分がなんとかできると思うことの傲慢さ

 

 まず、大原則として、希死念慮を持っている人に対して、安易に自分がなんとかできると思うのは大変危険である。

 私は産業カウンセラーの資格を持っており、一応取得に際し100時間以上の面接実習を受けている。しかし、それでも希死念慮を持つ人については自分1人でなんとかできると思ってはならず、適切な専門機関へのリファー*4が重要と教わる。それほどに希死念慮を持つ人への対応は難しい。

 もちろん、門前払いというわけではなく、キチンと話は聞く。だが、そこに「つらい経験」とやらは意味を成さない。件の雲水が実際に相談された時どうするつもりなのかは知らないが、このような相談の場合、色々と口を出すことは逆効果になる。

 産業カウンセラー協会のテキスト*5にはこう記されている。

 

(自殺について相談された場合)話の聴き方としては、本人が口にすることを黙って聴いていればよい。自殺を思いとどまらせたい一心で、いろいろ口を出すことは逆効果である。一緒に同じ時間を過ごすことがもっとも重要で、こうした態度は一般に「寄り添う」と表現される。こうした話の聴き方をしている限り、話を聴いている間に自殺行動が起こることはまれである。話をすることによって、相談者の気持ちも落ち着いてくる。*6

 

 あれこれとアドバイスをするのでなく、相談者の口にすることを黙って聴き、同じ時間を過ごすことが必要となる。

 そして、相談者を落ち着かせ、専門家につなぐことが重要なのである。

 

(自殺について相談された場合の対応について)第2は、抱え込まないで、できるだけ早く専門家に繋ぐことである。1人で何回も同じ話を聴き続けることは避ける。死にたいと思っている気持ちを本人の意思に反して第三者に伝えることは控えなければならないが、専門家に話をすることの必要性については相談者を説得することが必要である。それまでの過程で、相談者が自分は受け止めてもらえたと感じていれば、説得は可能である。*7

 

 

相談を受ける際、必要なのは“つらい経験”などではなく、知識と技術

 また、このようなリファー案件でない相談、例えば日常のちょっとした不安についての相談だとしても、この「つらい経験」の理屈には問題がある。

 相談者の「つらい」ことと、雲水の「つらい経験」は別物だからである。

 産業カウンセラーが学ぶロジャーズの来談者中心療法で、重要視されることの1つに、“共感的理解”がある。

 これは相談者の話す内容、感じ方等をあたかも自分自身のように感じ取ることであるが、重要なのはカウンセラー自身の経験を相手のそれであるかのごとく思い誤らないことと言われる。

 

ロジャーズは、共感的理解について、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取り、しかもこの「あたかも……のように」という性格を失わないことであると説いた。その世界はあくまでもクライエントのものであってカウンセラー自身のものではない。言い換えれば、カウンセラー自身の経験を相手のそれであるかのごとく思い誤らないことが大切である。*8

 

 たとえ同じ体験をしても、受け取り方は人それぞれであり、そこを見誤ると相談者の気持ちが置いてけぼりとなってしまう。なので、相談を受ける場合においては、むしろ自分と似たような経験の相談事の方が混同しやすく危ういと言われる。

 

 以上のように、「相談を受けるためのつらい経験をさせてあげるための暴力」というのは、たとえ体罰の是非を無視したとしても、全くの無意味であり、成り立たない理屈なのである。

 

相談先としての寺院

 僧侶というものに、そのイメージから、心の相談を期待する人もいるかもしれない。そして、実際、その僧侶の個人の資質や別口で技術を学ぶことで、それを可能にする僧侶もいるだろう。しかし、僧堂を出て住職資格を持っているということは、上述したように、相談業についてはなんの担保にもならない。

 

 上述の3年目の雲水はこの年、僧堂を出て家を継いだらしい。残念ながら、彼が3年間かけて得た“つらい経験”とやらは、少なくとも相談業については、全くの無意味であった。彼がその傲慢さで相談を引き受け、結果、被害者を生むという事態が発生しないことを切に願う。

 体罰・理不尽な指導は正当化できない

 

 前記事で述べたように、そもそもが体罰・理不尽な指導は様々な悪影響がある。そして、彼らのそれを正当化する理屈も、上記のとおり、僧堂関係者に留まらず被害を生みうる重大な問題をはらんでいるのである。

*1:現役からもOBからも。

*2:すべて同じ僧堂出身者であったので、もしかしたらその僧堂でのみ代々引き継がれている理屈なのかもしれない。/追記。同じ僧堂出身者のより年輩のOBによるとそんなことは言っていなかったとのこと。彼の言を信じるのであれば、ここ10年ほどで流布している理屈なのかもしれない。

*3:余談だが、彼になぜ僧堂に入ったのですか? と聞くと「自分の寺に跡継ぎがいなくなったら檀家さんが困るから」と答えた。私が出会った中では、在家出身の人間は非常に少なく、ほとんど皆そのような家の事情で僧堂に来ている。そこには仏教とか禅とか純粋経験だとかの話は出てこない。これについては私も同じ立場なので、とやかく言うことはできない。この件については、お寺と住居が一体となっているところが殆どで、兄弟のうち誰かが継がなければ生まれたときから住んでいる家がなくなってしまうという構造的な問題も関係している。

*4:他の専門家への紹介

*5:一般社団法人日本産業カウンセラー協会『産業カウンセラー養成講座テキスト 産業カウンセリング 改訂第6版』(一般社団法人日本産業カウンセラー協会、2012)

*6:日本産業カウンセラー協会 264頁

*7:日本産業カウンセラー協会 264頁

*8:日本産業カウンセラー協会 42頁

僧堂における体罰と理不尽な指導

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

(↑トップ記事)

 

体罰

 

 とにかく一番良く聞き、なおかつ、雲水らが自慢げに話すのが体罰に関する事である。
 例えば、「何か言おうものならパァンやで」と平手をするジェスチャーとともに笑いながら言う。「九州には厳しくて有名な僧堂があって、そこにいったやつは鼓膜破られて逃げてきたんや」とニヤニヤしながら言う。等。


 どう考えても、暴行、傷害の刑事事件だと思うのだが、なぜにこうも自慢げに話せるのか。

 前者に至っては妙心寺で行われている一般企業向けの新人研修での一言であり、これは一般の人間に言っても大丈夫なことと考えているのが恐ろしい。


 また、ある僧侶に話を聞きに行った際は「元受刑者が、元自衛隊員が、刑務所より自衛隊よりきついと嘆くんだよ(笑) ……この話するとみんな笑うのに君は元気がなくなるね」という言葉が印象的だった*1


 暴力事件を笑い話にできると思っていることに人格を疑う。しかし、私が今まで出会った僧堂経験者はそのように語ることが多い。

 

理不尽な指導

 

  また、直接的な暴力でなくとも、理不尽な指導*2も多い。

 

 これまたよく聞く例えが、「先輩雲水がカラスは白だといったら白と肯定しなくてはならない」というものである。上が言うことは絶対という時代錯誤*3なものである。

 もちろん、おかしいのは皆わかっているが、「ここではそういうルールだから」「資格得るまでの間だから」とそれに従う。これが服従への始まりだという話は以下の記事で述べる。

ztos.hatenablog.com

 その他に、怒号を発する、厳しいノルマ*4を課す、私的刑罰など。

 

 怒号については、私自身も目撃している。

 私も関わった行事のリハーサルをしている場面。

 1年目の雲水がお経を詠みながら打楽器を操作するが、1つ間違えると3年目の雲水から「そこは大鐘や!」と別室にいる私のところまで聞こえるレベルの怒号が飛ぶ。

 雲水関係者以外も多い場で、この威圧するような行為ができるということは、おそらく素直に正しい行為と考えているのだろう。*5

 

 このような怒号・暴言について、詳しくは後述するが、その効果としては「作業の処理能力、創造性、報告意欲、他人をサポートする意欲などが下が」*6り、また、その積み重なりにより「この世にいたくない」と自殺に発展することもある。重大な加害行為である。

 

 私的刑罰について、私が見聞きしたものだと外出時のペナルティがある。

 月に数日しかない外出日*7の際、作務衣でなく私服を着たことを理由に今後の外出を禁止する罰を与えたという。つまり、私人による自由刑*8である。

 なんの権限があってそれができるのか。これは、ただの監禁である。

 

 また、もはや指導でもなんでもないのだが、「入ってすぐでお経がうまいといじめられるからな」とニヤニヤしながら3年目の現役雲水に言われたことがある。

 理不尽この上ないし、それを3年目の雲水がなんの反省もなく言っていることが恐ろしい。当時この僧堂のトップは4年目の雲水の1人だけで、この3年目の雲水はナンバー2の立場にあった。率先してそのようないじめを止めるべき立場でありながら、面白いあるあるネタ*9かのように言い放ったのである。

入門試練の時点で

 僧堂に入るには5日間から1週間に及ぶ入門試練を経なければならない*10。いわゆる「庭詰*11」「旦過詰*12」である。

 あるブログには、庭詰の最中に暴力的に引っ剥がえされ外に投げ出され血が出るほどの怪我をしたとあった。これはずっと同じ姿勢の苦痛を和らげるための雲水側の配慮だという。しかし、暴力は暴力である。姿勢を崩す機会を与える方法は暴力による必要はない。そして、ある種儀式的な、互いに了承している型どおりの行為とはいえ、暴力をそれに組み込んでいる*13時点で、このブログのサブタイトル通り、理不尽と暴力の禅と言われても仕方がない。

 対本宗訓『禅僧が医師をめざす理由』には、「脚が痛くて動こうものなら罵声が飛んでくるし、時には外へ引きずり出されることすらある*14」と記述されている。前述の通り、罵声は暴力であるし、「外へ引きずり出される」はいうまでもない

 同書には「この試練を克服できないようでは道場の厳しい修行はとうてい勤まらない。中には途中で抜け出す修行志願者もいる*15」と記述されるが、暴力に正しく疑問を呈することすらできない者のみが雲水となるのならば、理不尽と暴力の禅寺になるのも当然であろう。

 そもそもが、この一連の入門試練が理不尽である。入門で低頭懇願することを強制しておきながら、それを(時には暴力を用いつつ)断りそれでもなお数日に及び低頭懇願させて初めて迎え入れる。如何な伝統、歴史があろうとも、この型自体が今の時代*16にそぐわない大問題であることを関係者は認識する必要があると考える。

 体罰や理不尽な指導の効果

  上記のようなことが何を引き起こすか。

 

 まず、体罰暴力の敷居を下げる。人は真似をする動物であり、無意識に他人の態度を模倣する。態度の感染が起こる。

 このことをある雲水に話した際、「そんなことはしないよ」と言っていたが、自分の意識でなんとかできると思っていること自体が危ない。

 私達は他人の言動やメディアの振る舞いから無意識に態度を学んでいる。例えば、お笑いにおいて、人の欠点をあげつらうことで笑わせる手法がある。それにより、その欠点は"いじって"いいんだ、とその欠点をあげつらうことへの敷居が下がる。

 

 荻上チキ『いじめを生む教室』ではこのように書かれている。

 

体罰の多い教室はいじめが頻発する理由の1つは)先生が体罰を振るうことによって、生徒に対して、暴力や制裁にゴーサインを出してしまうこと。教師による体罰は、正義を口実にすれば、特定の生徒に対して暴力を行うことも許されるのだと生徒に学習させてしまう、すなわち「懲らしめの連鎖」を生んでしまうのです。*17

 

 理不尽な指導についても下記のように述べている。

 

(理不尽な指導は)周りの生徒へも影響をもたらします。「あの人また怒られている」というからかいのキッカケを与えたり、「あの子にならこういうことをしても許されるだろう」というラベリングを促したりすることで、いじめを助長してしまうのです。*18

 

 また、その他に、体罰自体がいじめの原因であるストレッサーになる*19とも書かれている。

 体罰等によるストレスを受けた際、その発散の仕方が限られる場では、いじめが発散方法として横行する。*20

 もちろん、理不尽な指導についても同じくストレッサーとなる。

 

 また、いじめを生むだけでなく、これらの行為を受けることで、心理面への被害も生まれる。

 

理不尽な指導を受け、自殺をしてしまった生徒たちの手記を見ると、他の生徒たちの前で叱咤されたり、濡れ衣を着せられるなどして、大きな辱めを受けたことにより、「もうこの場にはいたくない」と感じていたことがわかります。そしてそれが「この世にいたくない」という気持ちに発展してしまうのです。

(中略)

「みんなから嗤われる存在になってしまった」という自尊心の低下を招いてしまい、それが不登校、自殺につながってしまうわけです。*21

 

 『いじめを生む教室』は学校でのいじめを扱っているので、子どもにとって学校は大きなシェアを占める居場所であり、そこに居場所がなくなることによって上記のようなことが起きると記述されている*22

 しかし、僧堂は学校以上に大きなシェアを占める居場所である。というか、そこにしか居場所がない。外出が厳しく制限され、外出時も雲水であることが義務付けられるからだ*23

 このような環境で自尊心が保てるだろうか。少なくとも私に自信はない。

 

 更に、影響は当事者のみにとどまらない

 

直接暴言を吐かれた人の作業の処理能力、創造性、報告意欲、他人をサポートする意欲などが下がるのはもちろんのこと、他人が暴言を吐かれるのを目撃しただけの人にも同様のことが起きることがわかっているのです。*24

  体罰を正当化する理屈

 このように体罰や理不尽な指導の悪影響は凄まじい。

 では、彼らはなぜこのようなことをするのか。

 話を聞いてみると、これらの行為を正当化できる理屈が彼らにはあるらしい

 続きは以下の記事に記す。

ztos.hatenablog.com

*1:この僧侶は某僧堂十数年在籍していた。体罰を自慢気に言う中堅雲水の話をこの僧侶にすると「あぁ、5年目くらいがいいそうなことや」と返答された。このセリフから、“5年目”を下に見て、かつ、その行為に否定的ということが読み取れる。で、あるならば何故そのような“5年目”を生み出す僧堂を肯定できるのか。“5年目”じゃわからんけど、十数年いた自分は違うという傲慢さがみえるが、私からはそのシステムを肯定している時点で同じ穴の狢にしか見えない。

*2:そもそもが指導ではなく、完全ないじめなのである。しかし、後述するように「つらい経験をさせてやる」ことが良いことだという価値観が形成されているので、彼らは指導のつもりなのだろう。

*3:無論、どの時代であろうと不適切ではあるが。

*4:ある元雲水は「掃除の範囲が広すぎてとても時間内にできないが、時間厳守なので間に合わないと怒られる。そこで私は発明したんだ。両手に雑巾を持って一度に2枚の雨戸を掃除する術を」と言って笑いをとっていた。思わず私も笑ってしまったが、純粋経験を会得するための作務(掃除)であろうのに、手段が目的にかわってしまっている。僧堂での日課(ノルマ)はこのような逆転現象に陥っているケースが多いのではないかと予想する。

*5:ちなみに、この1年目の雲水は33歳で、元々建設業で現場監督をしていたが、結婚相手がお寺の人間で跡継ぎがいないという、結婚相手のお家事情により雲水になったとのこと。一方で、3年目の雲水は寺の息子で、大学卒業してすぐに僧堂に入ったという。個人的には、年齢にかかわらず年上だろうが年下だろうが敬意を持つべきだろうとは思うが、年下からこのような扱いを受ける1年目33歳の雲水の気持ちを考えると胸が苦しくなる。むしろこのような思いを1年目でするからこそ、自分が上に立ったときはより威圧的になるのだろうか。

*6:荻上チキ『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書、2018) 96頁

*7:これ自体がおかしい。しかも、私が聞いた僧堂では、全日ではなく、太陽が出ている時間のみ。

*8:移動の自由の制限。懲役刑、禁固刑などがこれにあたる。

*9:実際そうなのだろう。

*10:対本宗訓『禅僧が医師をめざす理由』(春秋社、2001)30頁

*11:「大玄関の上がり框に低頭し、不動で入門を懇願する。それも上体をひねったかたちで頭を下げるわけだから、ものの三十分もしないうちに苦痛が体を襲う。しかしいくら苦しくとも動いてはならない。トイレと食事以外は終日その姿勢で熱意を示さなければならないのだ」対本宗訓 30-31頁

*12:「一室に閉じこめられて終日壁に向かっての座禅となる」対本宗訓 31頁

*13:後述するが、型とはいえ暴力行為をすることは、他のシチュエーションにおいても暴力の敷居を下げうる。暴力を受ける志願者側だけでなく、雲水側も悪影響を被る儀式なのである。

*14:対本宗訓 31頁

*15:対本宗訓 31頁

*16:正確にはどの時代であろうとも、ではある。

*17:荻上 95頁

*18:荻上 97-98頁

*19:荻上 95頁

*20:トップ記事

https://ztos.hatenablog.com/entry/2021/03/04/103812

参照

*21:荻上 97頁

*22:荻上 97頁

*23:これ自体が理不尽なルール

*24:荻上 96頁

いじめを生む僧堂

 荻上チキ『いじめを生む教室』*1では、「いじめが起きやすい教室」のことを「不機嫌な教室」とよび、どのような環境が「不機嫌な教室」になるのか解説されている。

 この「不機嫌な教室」と禅の僧侶になるための修行道場「僧堂」はとても似ている。というか、その強化版である。

 

 私は諸般の事情からこの「僧堂」に行かなくてはならない。

 しかし、複数の現役雲水*2やOBから話を聞くにつれ、暴力や理不尽にまみれた場所であるという印象を持った。また、「僧堂」のシステムそのものが「不機嫌な教室」に酷似する不適切な環境となっていると感じた。

 

 このブログは、私が感じている問題を言語化することを目的として立ち上げた。

 

 ブログの構成としては、このトップ記事をベースに、各論点について個別の記事で深く掘り下げる。個別の記事はこのトップ記事の中にそれぞれリンクを貼っている。

 まずはこの記事を軽く読んでいただき、それからリンクをたどって各記事を読んでいただくのがわかりやすいかと思う。

 

【追記】

 このブログについて、タイトルだけみて内容も読まずに感情論をぶつけてくる人がいるのは想定していた。しかし、このブログを好意的に読んでくれる人にも誤解されることが多々あったので、このブログの趣旨について予め記しておく。

 このブログの趣旨は、僧堂システムが前述した「不機嫌な教室」と酷似するような不適切な環境にあることの指摘である。「僧堂でいじめが起こる(起こっている)」という指摘ではない*3

 このブログでは、荻上チキ『いじめを生む教室』に出てくる「不機嫌な教室」と僧堂の環境を比較することをベースとし、その後、各論としてそれぞれの問題について触れていく。

 おそらく、このブログの主訴が「僧堂ではいじめが起こる(起こっている)」と勘違いされる一番の原因は『いじめを生む僧堂』というブログタイトルにあると思われる。しかし、このタイトルは、あくまで荻上チキ『いじめを生む教室』を種本としているとしていることからつけたものであるので、その点、勘違いしないでもらいたい*4

 このブログを通じて訴えたいのは、「僧堂は、荻上チキ『いじめを生む教室』に出てくる“不機嫌な教室”と酷似する不適切な環境にあるようだ」ということである。

 初見の方は、ぜひその前提で本ブログを読んでもらいたい。

 一度読んだ方で、この追記に気づいた方は、その視点でもう一度読んでいただけると幸いである。

 

僧堂はストレッサーが多く、逃げ場もなく、いじめが生まれやすい環境 

 いじめは、体罰や理不尽な指導・ルールなどのストレッサーが多い環境、そして、時間や場を管理されることにより発散の仕方が限られる環境、において発生しやすい。

 僧堂はまさにその環境にある。

 

 『いじめを生む教室』ではこのように述べられている。

 

 いじめの議論の中で主要な理論の一つに「ストレッサー説」というものがあります。これは、児童・生徒が感じたストレスを発散する際、学校空間ではその発散の仕方が限られてしまっているがゆえに、非行や不登校、いじめといった逸脱行動が発生するのだという説です。*5 

  学校の教室というのは、他人に時間を管理されている環境なので、自分好みのストレス発散がなかなかできません。一方でいじめというのは、「それなりにおもしろいゲーム」なので、そういう形でストレスが発露してしまうのです。

 しかし、いじめは、「なによりもおもしろいゲーム」ではありません。(中略)いじめという形でストレスを発散していた人が別の発散方法を手に入れると、いじめをしなくてもすむようになることがわかっています。問題は、学校では「クラスから離脱する」ことも、「ゲームやスマホなどを持ち込み、ストレス発散する」ことも禁じられていることです。*6

 僧堂は体罰や理不尽な指導・ルールというストレス過多な環境であり、更に、その発散の仕方は学校以上に限られる状況にある。

 このことについて、以下に記す。

 

 体罰・理不尽な指導については

 

ztos.hatenablog.com

ztos.hatenablog.com

 理不尽なルールについては

 

ztos.hatenablog.com

 

 ストレス発散の仕方が限られる環境については

 

ztos.hatenablog.com

 

軍隊・ブラック企業との親和性

 

 また、僧堂は軍隊やブラック企業と親和性が高い。どころか、ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』*7によれば、禅は積極的に戦争に加担していった歴史がある。そして、それは今ではブラック企業戦士を育成する企業禅という形で残っているとも。

 『いじめを生む教室』では

 日本軍人の手記や戦争体験記などを読むと、戦時下においては大人同士でもいじめが頻発していたことがわかります。固定化された組織の中で、ストレスの発散手段が非常に限られており、いじめという形で発散するしかなかったという点で、教室ストレスと似た側面があります。*8

 と、大人であろうとも、軍隊のような環境は、いじめの起きやすい環境であると述べられている。

 

 この点については以下に記した。

ztos.hatenablog.com

 

多様性のない僧堂

 以上のように僧堂という場は、平均的な人間にとっても問題をはらんだ場であるが、一定の属性を持つ人にとっては更に厳しいものがある。

 例えば、ある雲水は「30歳までに来ないと厳しいよ*9」と年齢を問題にする。また、あるOBは「こないだ入った1年目の雲水が腰痛になったから出てってもらった*10*11」と身体を問題にする。

 しかし、禅の実践に年齢や身体は関係するのか。

 私自身、精神障害2級であり、僧堂はおろか日常生活にも支障がある。

 ここで重要な考え方は、合理的配慮と多様な代替である。

 

 この点については、以下に記す。

ztos.hatenablog.com

 

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構造への怒り、しかし、対話へ

 以上の各記事に僧堂についての私の考えを記した。

 かつてある雲水と議論した際、反論できなくなった雲水の口からモゴモゴと出た「宗教の世界に社会学*12持ち込まれても……。うちはうちのやり方やから……」というセリフが印象に残っている。

 たしかに宗教とは「自明でないことがらを前提としてふるまうこと*13」である。

 しかし、既に自明になっていることから逃れることはできない。宗教を人権侵害の免罪符にしてはならないのである。

  

 このブログは僧堂への、更には男根主義・軍隊主義・体育会系・精神論などへの、怒りを芯としている。しかしながら、なるべくに論理的に、自分の考えをまとめたつもりである。

 雲水志願者や1年目の雲水をみると、この理不尽・暴力・権力関係に気づきながら、自らの将来のため・家のためにと、耐え忍んだり、悲観的になっている者をみかける。私もその1人である。

 彼らの殆どは、そのような構造の中でサバイブできないカッコつきの「弱い」自分を恥じ、自罰的になっている。私もその1人である。しかし、今まで記述してきたように、この僧堂のシステム自体が問題であり、罰するべきは自分でなく構造である。闘う言葉を持たないなら、このブログをぜひ利用してほしい。また、このような稚拙なブログに頼る必要がない者は、ぜひ自らの言葉を発してほしい。

 

 そして、僧堂関係者の方。色々思うところはあるだろう。怒りを向けられたことに憤慨しているかもしれない。

 しかし、前述のとおり、なるべくに論理的に記述してきたつもりである。なぜなら、対話を諦めていないからだ。別記事にて、このブログの姿勢について「僧堂は、宗教的意義はさておいて、このような問題が起こりうるシステム上の不備がある。なので、宗教的意義ではなく問題が起こるシステムに目を向けて対話しよう」と記述した。

 私は大学で労働法を専攻していたが、担当教官が労働争議について「相手を跪かせるためのものでなく、双方にとって良いシステムに生まれ変わるための機会」であると語ったことがある。この問題もそうでありたい。

 ぜひ、対話を、そして共に考えてほしい。

*1:荻上チキ『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書、2018)

*2:「僧堂」で修行する僧のこと。

*3:もちろん、いじめの発生しやすい「不機嫌な教室」と酷似しているという指摘なので、結果として通常の組織に比べ、いじめが起きやすい環境であると私は考えている。しかし、それが主訴ではない。また、いじめが起きやすい環境であるという部分に異議を申したいのであれば、「○○という前提が間違っているので、僧堂の環境は“不機嫌な教室”とは異質のものである」「前提は合っているが、○○という理屈から危惧されるようなことは起こりにくい」等の反論が必要であろうと考える。このような指摘はこちらの僧堂に対する解像度もあがるので、歓迎するところである。だが、例えば「うちでいじめはない」のような子供じみた水掛け論は言われても困ってしまう。

*4:正直なところ、このような短略的な勘違いを呼んでしまうのであれば、このタイトルをつけたのは間違いだったと感じている。機会があればそのうち変えるかもしれない。

*5:荻上 93頁

*6:荻上 94頁

*7:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア著(エイミー・ルイーズ・ツジモト訳)『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015)

*8:荻上 94頁

*9:理由は、「1日3時間の睡眠で耐えれる体力がないと無理だから」とのこと。しかし、1日3時間の睡眠は健康上大きな問題があるし、それはどの年齢だろうと同じである。

*10:座禅に支障が出ることがその理由であると思われる。しかし、既存のプログラムを遂行できないから追放、ではなく、どうすればその状態で趣旨を達成できるかを「まず一緒に考える」ことがこの場合の正しい思考であり合理的配慮である。

*11:追記。件のOBに本稿を見てもらったところ「出てってもらった」なんて言い方はしていないはずと指摘を受けた。「基本的に犯罪でもしない限りこっちから追い出すことはない」「腰痛の彼は自ら出ていき、その後腰痛でも可能な別の僧堂に行った」とのこと。他の件には冷静だったこのOBがこの件には憤慨を隠す様子がなかったところから、一定の信用がおける発言だと感じた。一方で、労働闘争の現場で頻繁に見られるように「積極的な追い出し」はなかったとしても腰痛により居づらくなる「消極的な追い出し」の可能性は指摘しておきたい。もちろん、この件についてどのようなプロセスがあったのかはわからない。先の注釈に記したように「どうすればその状態で趣旨を達成できるかを一緒に考える」というプロセスが大切であり、そのようなプロセスがあった上で、結論として別の僧堂にスムーズに移ったのであれば一定の評価ができると考える。ただし、所属を変える負担を考えると、同じ僧堂で対応が最も望ましいとは思う。また、腰痛に対応できないということはその他の身体的ハンディにも対応できないということになるので、やはり、すべての僧堂で同じように受け入れ可能であることが望ましいと考える。

*12:特にこのとき社会学を持ち出した覚えはないのだが、とにかくそう言われた。

*13:橋爪大三郎『世界がわかる 宗教社会学入門』(ちくま文庫、2006)24頁

禅は、軍隊やブラック企業と相性がいい? 服従のプロセス、僧堂。

いじめを生む僧堂 - いじめを生む僧堂 -理不尽と暴力の禅寺-

(↑トップ記事)

 

  僧堂で行われることは服従のプロセスである。
  その服従のプロセスは軍隊と共通するところがあると、ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』*1は指摘している。
 また、戦後の今は企業禅としてブラック企業に都合のいい労働者を育てるために援用されているとも。

 

服従の第一段階 入門

 服従のプロセスはその入門から始まる。


 たとえば、一人の修行僧が禅寺での修行を希望したとき、彼は何時間も、ひいては何日間も寺の入口で低身の姿勢をとる。その寺を希望したわけを尋ねられれば、その答えは、「何もわかりません。どうかよろしく……」という以外はない。

 なぜそのような返答をするかといえば、その修業僧の心は白紙のごとく、いかようにも彼の上長によって塗りかえていただいて結構というわけである。もしその雲水が、先のような返答をせず、ただ理屈を述べるならば、心が白紙になるまで肩が腫れるほど叩かれつづけることになる。*2


 この一連の儀礼は、外では通じない僧堂独特の村社会、村ルールに新人を染めるためにはとても有効に働くだろう。本人はそういう儀式だから、形の上のことだから、とその流れに乗ってしまうが、これが服従の第一段階なのである。

 

ブラック企業との類似 小さな理不尽から始まる服従への道

 これはいわゆるブラック企業でも、この服従の第一段階はよく目にするところである。
 たとえば、小さいところで言えば、ブラック企業が新人研修と称して、指導教官やあるいは親などに感謝の手紙を書かせるのもその一環である。
 強制されて感謝の手紙を書くなんて「おかしいな、でもあほらしいけど逆らうのも面倒だしさっさと済ましちゃおう」
なんて思ってしまうが、この“小さな理不尽”受け入れることがが服従への第一歩である。

 僧堂のそれは、より直接的であるが、仕組みは同じ。
「何もわかりません。どうかよろしく……」
 何もわからない、なんてわけないのであるが、そういう“儀式”だからとその“理不尽な流れ”に沿ってしまう
 これが村ルールに染まる第一歩なのである。

 

「自己否定」の肯定 服従の完了

 入門が許されたとして、すべての者が彼の目上の者となり、たとえ入門が数時間の違いであっても、食事の際も整列の際も、すべてが入門順位。それがある程度の支配権利でふるわれていく。一、二年の修行を経た先輩格の雲水は、新入りの雲水にとっては雲の上の人に見えてしまうのである。

 彼らは警策をふるのみならず、新入りの作業状況の善し悪しまで判断する。そして上質の色つきの衣を着て、より広い部屋で寝起きが許される。

 (中略)こうして見れば、禅寺の生活と訓練様式は軍隊でのそれと、あきらかに共通性があることがわかる。*3


 理不尽な上下関係が管理・服従に都合がいいのはアウシュヴィッツ*4などを見てもわかる。
 これを通じて、気づく頃には村ルールを受け入れて、もし不満があっても悪いのは自分だと自罰的になっていく。自己否定である。


 『禅と戦争』はこう綴る。

 得元*5よりよい社会人となるには自己否定、つまり無我の境地を主張、それはかつて大拙や祖岳が「よき兵士」であらんために自己否定を主張したことと共通するものがある。(中略)明治以後は天皇を中心とする中央集権的な政府とその政策に忠誠心を求められた。戦後には、その対象は自分たちの会社とその利益にとってかわった。*6

 

人権侵害発生装置

  僧堂は個をなくす場である。そこに宗教的意味を見出し、肯定的にとらえることもできるかもしれない。

 しかし、装置として、僧堂は軍隊やブラック企業のそれととても相性がいい。いくら宗教的意味をもって肯定的にとらえたとて、この人権侵害発生装置となりうるシステム的欠陥から目を背けてはならない。別の肯定的意味があります、では反論にならないのだ。

 

あるOBの主張とその矛盾

 ある僧堂OBは、僧堂システムの問題点を訴える私に対し、そのような拘りを捨て「自己否定」することが大切だと説いた。
 曰く、これまで自分がまとってきたものを脱ぎ捨てることで、自由を得、新たな道へ進める、とのこと。
 
 なるほど、カウンセリングに携わる者として一定の理解はできる。
 カウンセリングも、傾聴を通して、自分の固定された準拠枠に気づいてもらい、その枠から抜け出すことをゴールの1つ*7とする。しかし、それは強制的なものではない。自力で気づいてもらうものだからこそ意味がある

 

 強制的に「自己否定」を迫ることの問題は上述してきたとおりである。それが権力構造に都合がいいことも。


 そして、このOBはまさにそれを体現してきた。


 具体的なやり取りは省略するが、やり取りを続けるうちに高圧的になってきた。自らの立場の強調や、“老大師”は“僧堂師家”という立場であり、あなたは“〇〇寺徒弟”という立場であるなど。
 「自己否定」を肯定している割に、何も脱ぎ捨てていない、“立場”なるものをまといまくっている様をまざまざと見せてくれた。


 上述した得元や鈴木大拙「よき兵士であらんために自己否定を主張した」ことと全く同じことである。兵士には自己否定させ天皇を中心とする政府・軍に忠誠を強制しながら、自分の側は自己否定どころかより“立場”を強調する。

 

 「自己否定」を肯定するならば、まずは自分自身が座っている玉座から降りて一個人としてコミュニケーションをとるところから始めるべきであると考えるが、少なくともこのOBはこの有様であった。

 このことからも、僧堂の語る「自己否定」が如何に詭弁であるかがわかると思う。その詭弁ぶりはやはり軍隊やブラック企業を想起させるものであり、僧堂の、ひいては禅寺の矛盾がまざまざと見て取れるのである。

 

 

*1:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア著(エイミー・ルイーズ・ツジモト訳)『禅と戦争 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015)

*2:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア  267-268頁

*3:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア  268頁

*4:収容者を格付けし、収容者内に上下関係を作り出すことで管理を容易にした。

*5:酒井得元。「誠実とか赤心とか『まごころ』ということは、我々が自分の全てを投げ捨てて絶対奉仕する心情であり行動である」と語っている。 ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア  270頁

*6:ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア  270頁

*7:無論、あくまでゴールの1つである。決めるのはクライエントである。自身の準拠枠に気づいたうえでそれに拘り続けるのもクライエントの自由であるし、気づかなくても問題はない。あくまでゴールの典型例の1つである。